山口 進さん(昆虫植物写真家)の「仕事とは?」|前編

やまぐちすすむ・1948年、三重県生まれ。大分大学経済学部卒業。電機メーカーのSE(システムエンジニア)を経て、76年より昆虫植物写真家・自然ジャーナリストとして活動している。「花と昆虫の共生」をテーマに国内外で取材・撮影。NHKの自然番組『ダーウィンが来た!』『ワイルドライフ』などの企画撮影を手がけるほか、「ジャポニカ学習帳」(ショウワノート)の表紙を78年から約40年にわたってひとりで担当している。2001年、写真集『五麗蝶譜』(講談社/1988年発行)で日本蝶類学会江崎賞受賞。おもな著書に『クロクサアリのひみつ 行列するのはなぜ?』(アリス館)、『実物大 巨大昆虫探検図鑑』(岩崎書店)、『砂漠の虫の水さがし』(福音館書店)、『地球200周! ふしぎ植物探検記』(PHP サイエンス・ワールド新書)、『カブトムシ山に帰る』(汐文社)など。自然科学写真家協会会員、日本鱗翅学会会員。

28歳で会社員を辞め、写真家に。カメラの知識はほとんどなかった

-子どものころから昆虫がお好きだったんですか?
父が海洋学者で、家の中に自然科学系の本がたくさんあり、昆虫図鑑をよく眺めていました。父は子煩悩だったので、よく僕を外に連れ出してはギンヤンマやアブラゼミなどをつかまえて見せてくれましてね。中でも印象的だった出来事は、小学生になったころだったかな。家の中に飛んできたアゲハチョウを父がつかまえて、展翅(てんし。標本にするために、昆虫の羽を広げること)をしてくれたんです。目の前で羽を広げられたアゲハチョウの姿がそれはもうきれいで、昆虫の美しさに魅せられました。

-昆虫や植物を撮り始めたのは?
それが、20代後半までは自分のカメラすら持っていなかったんですよ。大学を出て、電機メーカーに就職しましたが、上司に従うのが性に合わなくてね。誰かに指示されなくてもやっていける力を蓄えようと一生懸命勉強して、先輩たちよりもコンピュータに詳しくなったんです。それで、「お前は自由にやれ」とSEのはしりのような仕事を任されていました。登山が趣味で、休みの日には山通い。充実していましたが、どこかしっくりこないものがあったんでしょうね。ある時、百貨店の昆虫展で昆虫写真家の仕事を見て、「僕のやりたかったのは、これだ!」と衝撃を受けました。その1年後、28歳の時に退職し、貨物船でニューギニアへの撮影旅行に出かけました。退職金で買ったカメラと写真の入門書を携えて。

デジタルカメラのない時代で、おまけに持っていったのは一般的な一眼レフカメラではなく、中判カメラ。フィルム1本につき12枚しか撮れません。また、昆虫を撮るには被写体に近づいてもピンボケしないマクロレンズが必要ですが、当時はいいものが出回っておらず、本を頼りにカメラを改造しました。今思えば、まともな写真が1枚も撮れていなくても不思議ではない状況でした。しかし、運が良かったんでしょうね。帰国後現像してみたらたまたま写っていて(笑)。それを写真誌『アサヒグラフ』に持ち込んだところ、副編集長が気に入ってくださり、時々特集の仕事を頂いたり、連載を担当させてもらえるようになりました。

1978年から、「ジャポニカ学習張」の昆虫や花の撮影をスタート

-「ジャポニカ学習帳」の表紙の写真を撮り始めたのは?

当時学習用ノートを販売しているメーカーは50社くらいありましたが、どのメーカーも表紙写真は写真のエージェントから借りていて、店頭には似たものばかりが並んでいました。ショウワノートさんの「ジャポニカ学習帳」も差別化ができず、売り上げが伸び悩んでいたようです。そこで、表紙用の写真を独自に撮影しようという話になり、ショウワノートさんからご連絡を頂いたのが始まりでした。『アサヒグラフ』で僕の写真を見た副社長さんと開発担当者の方から別々にほぼ同時にお電話があったんですよ。それほど全社を挙げて力を入れている企画だったんです。

「世界特写シリーズ」と題して、当時70種類ほどあった商品に表紙と裏表紙でそれぞれ3枚、計210枚を世界中で撮影するという依頼。インターネットのない時代ですから、目的の昆虫や花を探すには勘と現地の人たちとのコミュニケーションだけが頼り。情報収集にものすごく時間がかかり、当初は1年のほとんどを「ジャポニカ学習帳」の仕事に費やしました。体力的にも大変でしたが、「世界特写シリーズ」は発売直後から大きな反響があり、継続的に仕事を頂けるようになりました。78年、30歳の時です。それまでの僕はアルバイトでプログラミングの仕事をして渡航費を稼いでは海外に撮影に出かけるという生活で、経費の捻出に苦労していましたから、「これでもっと海外で撮影できる」とすごくうれしかったのを覚えています。

道を切り開くには、「意地でも人と同じことはしない」という姿勢が大切

-山口さんが撮影の仕事をお始めになったころ、日本に昆虫写真家はどのくらいいたのですか?

昆虫を専門に撮影しているのは3、4人だったと思いますが、自然の撮影をしている写真家はたくさんいました。ただ、海外で昆虫や植物を撮影する写真家は僕のほかにあまりいなかったので、重宝がられたところはあったと思います。僕は写真家としてのスタートが遅めだったので、漫然と被写体を撮るのではなく、何かテーマを定めて個性を出そうという気持ちも強かったですね。誰も手がけてないテーマを追おうと始めたのが、5種類の蝶(ちょう)の生態撮影です。いずれも幼虫時代にアリに育てられる蝶で、研究の進んでいる日本の蝶の中では珍しく生態が謎に包まれていました。

撮り始めてすぐに「しまったな。これは大変だ」と思ったのは、幼虫が入り込んだアリの巣の撮影の難しさ。アリの巣は土の中にあるので、幼虫を見つけるには、手当たり次第にアリの巣を掘り起こすしかないんですね。おまけに、やっと見つかっても、巣の断面がきれいな状態でないと、撮影はできない。一事が万事そんな感じでしたし、生態解明にも時間がかかり、13年間かけて完成させたのが『五麗蝶譜』という写真集。構成やレイアウト、文章までほとんどを手がけました。この本が専門家や昆虫ファンの間で評価され、写真撮影だけでなく、本の執筆や、自然をテーマとしたテレビ番組の撮影や企画・監修も依頼されるようになったんです。

人のやっていることはやらない。この姿勢が僕の仕事の基本です。そうすると、道は自分で探さなければいけません。自分の道をどう見つけるかを、今も常に考えてます。人というのは、全員可能性を持って生まれていると思うんですよ。その可能性を伸ばすために大事なのは、人と同じことをしないこと。言うはやすしですが、集団の中で人と違うことをやるのは簡単ではありません。「ひねくれ者」と最初は仲間外れにされることもあるかもしれません。でも、集団から離れて自分だけの力が強まると、今度はみんながついてきます。自分で道を切り開くには、「意地でも人と同じことはしない」という姿勢が大切だと思いますよ。

ph_shigoto_vol187_01

後編では秘境での撮影のご苦労や、好きなことで食べていくための秘訣(ひけつ)をお話しいただきます。

→次回へ続く

INFORMATION

昆虫学者・丸山宗利さんが成長の過程で出合った虫を、山口さんの写真と共に振り返るフォトエッセー『わくわく昆虫記 憧れの虫たち』(講談社/定価:2000円+税)。55種の昆虫が撮影されているが、そのほとんどが掲載する種が決まってから1年をかけて撮り下ろされたもの。「撮り下ろしをするのは僕からの提案でした。丸山さんの子どものころの虫への気持ちや視点を想像しながら撮ることで、写真にストーリーを持たせたかったんです」と山口さん。丁寧に作られた、ぜいたくな一冊だ。

ph_shigoto_vol187_02

取材・文/泉 彩子 撮影/臼田尚史

就活をはじめる以前に、本当はいろんな不安や悩みがありますよね。
「面倒くさい、自信がない、就職したくない。」
大丈夫。みんなが最初からうまく動き出せているわけではありません。

ここでは、タテマエではなくホンネを語ります。
マジメ系じゃないけどみんなが気になる就活ネタ。
聞きたくても聞けない、ホントは知りたいのに誰も教えてくれないこと。
なかなか就活を始める気になれないモヤモヤの正体。
そんなテーマを取り上げて、ぶっちゃけて一緒に考えていきましょう。

みなさんが少しでも明るく一歩を踏み出す気持ちになれることが、
私たちの願いです。