ハイパー学生のアタマの中

Vol.22 上智大学 鷲谷修也さん

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わしや・なおや●1988年北海道登別市生まれ。小学校3年から野球を始め、中学時代は地区内のリトルシニアチームに入り、3年次に道大会で準優勝。その後、駒澤大学附属苫小牧高等学校にスポーツ特待生として入学し、野球部に所属。2005年の第87回全国高等学校野球選手権大会優勝、および06年の第88回全国高等学校野球選手権大会準優勝メンバー。07年8月、アメリカ・カリフォルニア州のデザート短期大学に入学し、同大学野球部に所属。08年6月、米ドラフト会議でMLB(メジャーリーグベースボール)ワシントン・ナショナルズに42巡目で指名を受けるも辞退。09年6月、再び同球団から14巡目で指名され、これを許諾。日本人では2人目となる米ドラフト指名契約選手に。同年のガルフ・コーストリーグ(MLBマイナーリーグの下位クラス)では40試合に出場し、チームのリーグ優勝に貢献。10年6月、肩のけがによる不調などを理由に同球団を解雇され、日本に帰国。同年7月、BCリーグの石川ミリオンスターズに入団。11年5月、同球団を本人の希望により退団。同年12月にあった上智大学外国語学部への編入試験に合格し、12年4月より同大学に編入学。14年4月、外資系投資銀行に就職予定。

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ガルフ・コーストリーグ・ナショナルズ(ワシントン・ナショナルズ傘下のマイナーチーム)の選手として、試合に出場した時の写真。「当時ピッツバーグ・パイレーツに所属していた岩村明憲選手の合同自主トレーニングに参加させてもらったこともあり、在籍中の1年間は野球だけでなく、人間的にも大きく成長できたと思っています」。

大学受験の失敗、直感を信じて決意したアメリカ留学

幼少期、僕は何をやっても続かない子どもでした。サッカー、水泳、器械体操、英会話…「やりたい!」「やめたい!」を繰り返す僕に、両親はずいぶん手を焼いたそうです。野球を始めたのは、小学校3年から。小学校の仲のよい友達に野球を始める子が増えてきて、「みんながやってるから!」という安直な理由で、両親にせがみました。野球が長く続いたのは、やはり自分に向いていたからだろうなと思います。

 

小学校6年生の時、母に勧められて地元のシニアチームの体験練習に参加したのをきっかけに、僕の野球に向かう姿勢が大きく変わりました。今まで何となくこなしていた練習の意味や目的をはっきりと明示する指導を受けて、「こういうレベルの高い練習をして、もっとレベルの高いところでプレーをしてみたい」という欲求が、急激に強くなったんです。そして、地元の中学校に入学したのと同時にシニアチームに入団。チームの練習以外にも、自主トレで素振りとランニングは毎日欠かさずやっていました。目標になったんですよね、プロの選手になるということが。シニアチームの監督はプロのスカウトから声がかかったことのある人で、コーチたちもうまい人たちばかりで。「この人たちについていけば、自分はプロになれるんだ」と、そのころは本気で信じていました。

 

その後、スポーツ特待生として駒澤大学附属苫小牧高等学校に入学。高校時代は、文字通り「野球漬け」の日々でした。レギュラー争いが本当に激しくて、めちゃめちゃきつかったです。部員は100人以上、チームは1軍から3軍まで。練習でのワンプレーひとつをとっても競争で、レギュラーでも気を抜いたプレーをすればすぐに下のチームに落とされる厳しい世界です。最初は全員3軍の下っ端からスタートして、練習もグラウンドの隅っこでの壁当てなど。ランクによって、メニューの内容も、練習する場所も違います。上のチームに上がるには、とにかく監督の目に留まることが必要です。ただ、3軍なんかは普通に練習をしていても、ほとんど監督に見てもらう機会がありません。貪欲に自分をアピールしていける人間だけが試合に出られるようになる…毎日が競争というシビアな環境でした。

 

僕が公式戦に出られるようになったのは、高校2年の春季大会くらいから。その年の夏の甲子園ではレギュラーとして定着し、念願の優勝を果たしました。甲子園は、本当に気持ち良かったです。あれだけのお客さんを前にして試合ができるのは、最高です。練習中のシートノック(選手が守備位置につき、ノッカーの打つボールを捕って各塁への送球を行うチーム練習)でさえも、いい送球をすると客席がワーッとわくんですよ。あの歓声はたまらないですね。

 

3年の春には一度ベンチから外されましたが、夏には再びベンチ入り。北海道大会の決勝戦で2打席連続のホームランを放ち、全国大会からはレギュラーに返り咲きました。順調に勝ち進んでいきましたが、決勝で早稲田実業に敗退。そこで「試合のあとに、自分たちの学校の校歌が流れない」のを、すごく不思議に感じたことは、今でもよく覚えています。僕がいた3年間、うちの高校ってほとんど負けたことがなかったんですよ。だから、おごりの気持ちはまったくないんですが、「試合のあとには、自分たちの学校の校歌を聞くものだ」と身体が覚えていたんだって、そのとき気づきました。悔しさもありましたが、それと同じくらい違和感のある最後だったなと、記憶に残っています。

 

3年の夏の甲子園が終わり、事実上部活を引退してからは、大学の推薦入試に向けて準備を始めました。当時、プロを目指そうという気持ちは、もうありませんでした。大学や社会人リーグで野球を続けている先輩たちが、ほとんど上のステージで活躍できていなかったんです。「あんなにすごい先輩たちが通用しないんだったら、自分は無理だな」と踏ん切りをつけていました。しかし、志望した大学の推薦入試に落ちてしまって…。どうしようかと途方に暮れていた時、ふと、親友のお姉さんがアメリカに留学していることを思い出したんです。「アメリカの大学って、出るのは難しいけど、入るのは簡単」という話を聞いた覚えがあって、「そうか、アメリカだ!」と。なぜか、歯車がカチッと合わさったような、そんな感覚がありました。それからすぐに母親に電話して、「推薦に落ちた」って言ってショックを与えた上に、「アメリカに行く」って宣言して、もっと泣かせてしまいましたね(笑)。

 

それからは留学の情報を集めながら、必死に英語を勉強。そして、無事にカリフォルニア州のデザート短期大学に入学が決まりました。志望したいくつかの大学には「少しでも入試が有利になれば…」と思って、自分の高校時代のプレーをまとめたビデオを送っていたのですが、デザート短大の野球部の監督がそれを観て「うちに来ないか」と直々に返事をくださったんです。本気で野球を続ける気持ちはありませんでしたが、部活動などの実績があると編入時に有利になると聞いていたので、そのために続けようと。「UCLAかバークレーに編入して学位を取得し、オレを落とした日本の大学を見返してやる」という誓いを胸に、2007年8月、僕は単身で海を渡りました。

 

 

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運命を変えたドラフト指名、プロを目指す決意

アメリカでの部活の野球は、日本の高校での練習と比較すると非常に楽だったので、力を抜いて取り組んでいたんですが…渡米して1年がたとうとしていた08年6月に、思いもよらない出来事が。アメリカのドラフト会議の前に、10球団ほどから「指名しようと思っているので、入団を検討してほしい」と声がかかったんです。そのうちの1球団からは、具体的に契約金などの交渉も持ちかけられて…。編入を有利にするためにやっていた野球で、まさかドラフト指名がかかるなどとは、夢にも思っていませんでした。ただ、そうやって自分を選手として評価してもらえる球団があることを知って、「真剣にプロを目指してみてもいいんじゃないか…」と、心が揺れ始めました。

 

結局、その年のドラフトでの契約はお断りすることに。ただ、それは僕なりのけじめでした。「やるなら、てっぺんをとるつもりでやる」のが、僕のポリシーです。てっぺんどころか、メジャーのマイナーリーグでさえ通用するイメージが持てない今の自分では、まだまだ戦えない。1年間、プロに向けて身体をつくり直し自信をつけてから、勝負のグラウンドに上がろうと決意したんです。

 

2年目のドラフトでは、どんなに契約金が安くても契約しようと心に決めていました。そして、1年目にも高く評価をしてくれていたワシントン・ナショナルズに、ドラフト14巡目で指名を頂いて契約。09年6月、マイナーリーグではありますが、晴れてプロ野球選手としての道を歩み始めることとなりました。

 

アメリカでプロの選手となって一番戸惑ったこと…それは、日本とアメリカの練習やプレーに対する考え方の違いです。日本では技術向上のために、選手同士がコミュニケーションをよく取りながら、自分たちで投球やバッティングのスタイルを試行錯誤するのが一般的。ですが、アメリカではほとんどがトップダウンの指導なんです。監督の指示が絶対的で、選手たちは指導者のオーダー通りに動く。練習中のキャッチボールひとつをとっても、2人の距離や投げる球数、時間などが厳密に決まっているんです。そして、けが防止のためもあって、「与えられた量の練習以外はやらない」のが原則。だから、アメリカの選手たちは自主トレをほとんどしません。それどころか、自主トレをしていると「上からの指示以外のトレーニングはするな、早く帰れ」と、グラウンドから追い出されたりします。日本でずっと貫いてきた野球との真摯な向き合い方が、アメリカではことごとく否定されてしまうので、とてもつらかったです。

 

ワシントン・ナショナルズでは1年間プレーをして、10年6月のドラフトで解雇されました。入団したてのころはなかなか結果を出せなかったのですが、解雇は後半の徐々に調子を上げていたころ。だから、コーチたちに呼び出されたとき「やっと上のリーグに上がれるんだ」って思ったんですよ。でも、部屋に入ったらコーチたちが深刻な顔をしていたので、そこで「あ、オレ解雇されるんだ」って悟ったんです。悔しさはもちろんありましたが、どこかで「これでやっと日本に帰れるんだ」と、安堵する気持ちもありました。

 

日本に戻ってからは、まずBCリーグ(北陸・信越地方の5県と関東地方の1県を活動拠点とするプロ野球の独立リーグ)で経験を積もうと考え、10年7月にセレクション(試験)をパスして石川ミリオンスターズに入団。しかし、けがの影響などもあって伸び悩み、11年5月に同球団を自主退団して、野球自体からも引退する決意を固めました。その後、中断してしまっていた勉強を再開させるために大学の編入試験を受け、12年4月から上智大学外国語学部に3年生として編入学しました。

 

大学生活はとても楽しいです。いろんなタイプの優秀な学生がいて、日々刺激をもらっています。僕の所属している学部は外国語学部なのですが、主に会計・経済・金融などを履修して勉強しています。多分、数字がキライじゃないんだと思います。野球選手って、打率とか防御率とか、毎日数字を追うのも仕事だったので。

 

就活は、編入してからあっという間に始まりました。志望業種はコンサルティング・金融・商社。いろいろな社会人の先輩と話をする中で、自分は頭を使って組織をまとめるより、1対1の会話を大事にして何かをしていく方が向いているなと気づきました。来年度からは、外資系の投資銀行で働き始める予定です。その会社に決めた最大の理由は、尊敬できる先輩社員に出会えたこと。その方はすごく優秀なんですが、謙虚で優しい人です。しかも、今の会社が9社目の勤め先で、これまでに3回もの倒産を経験しており、ビジネスのダウンサイドも知り尽くしている強さがあります。何よりも決定打となったのは、先輩訪問をした時「オレが鷲谷を一人前に育ててやるよ」と口説いてくれたことです。その言葉を聞いて、もう「ここしか行く道はない」と思いましたね。

 

大学には、人生を180度変えるようなきっかけがゴロゴロ転がっている気がするんですよ。大学生というだけで、すごい人に会えるチャンスも多いですし、学生同士のネットワークも幅が広くて、そこに大きな可能性が次々と生まれてきたりする。大学って「やろうと思えば、なんでもできる」みたいなことをよく聞いていましたが、本当にその通りだなと実感しています。だから、若いうちは何事も「無理」なんて言わないで、とりあえずやってみる。「考えるより先に、まずは動いてみること」で、つかめるチャンスが増えるんじゃないかなと思います。

 

 

鷲谷さんに10の質問

Q1. 好きな異性のタイプは?

黒髪で清楚でカリスマ性があって太陽のような…ってよくばりすぎですね(笑)。人に元気を与えるような女性が好きです!

Q2. 好きな食べ物は?

お寿司、やよい軒のおまぜ定食など。あと、母親が作る豚汁。北海道では“ぶたじる”と読みます。昔、テレビの取材で「好きなものは?」と聞かれてそう答えて以来、帰省する度に真っ先に作ってくれます(笑)。

Q3. 好きな映画は?

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』。映画はそれほど観ないんですが、タイムスリップしたりするような、夢がある話が好きです。

Q4.好きな音楽は?

『ジュラシック・パーク』のテーマ曲。打席に入るときの入場曲にしていました。

Q5.趣味は?

スポーツ、乗馬、読書、食べログ検索、温泉など。走るのが好きで、上智大学に編入してからは陸上部に入って短距離走を本格的に始めました。それが縁となって、2012年の11月に、ジャマイカでウサイン・ボルトさんが所属する「レーサーズ・トラック・クラブ」で合同トレーニングをさせてもらう機会を得られました。写真は、そのクラブの若き敏腕コーチたちと撮ったものです。

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Q6.宝物は?

歯並び、剛毛すぎる髪の毛。すごく自分らしい部分だなぁと感じていて、愛おしく思っています(笑)。

Q7. 座右の銘は?

感謝・謙虚・笑顔。同世代でもそうですが、特に目上の人でこれらを大事にしている方々は、本当に人として尊敬しています。

Q8.ひとつだけ願いがかなうとしたら、何を願う?

中南米まで数分で行ける飛行機を作ってもらいたい。現在のアルバイト先がジャマイカ政府の観光局とつながりがある関係で、この半年間で3回ほどジャマイカに行ったんですが…飛行機の乗り継ぎなどもあって、片道26時間ほどかかるので…結構きつかったです。

Q9.最近特に気になっていることは?

証券外務員試験の結果です。落ちていたら、いろいろな所に土下座しに行かなければなりません…(ちょうど取材前日に受験。その後、無事合格)。

Q10.今、一番会いたい人物は?

作家の百田尚樹さん。先日、内定先の上司と雑談しているとき、最近読んだ本の話になったんですけど、ちょうどふたりとも百田さんの著作を読んでいたんです。それで、話が盛り上がって。僕は『海賊と呼ばれた男』を読んだんですが、主人公の男気に強くひかれました。

 

一日のスケジュール

on
5:00 起床。ニュース番組『モーニング・サテライト』を見て、海外マーケットの動向をチェック。
6:30 内々定先に出社。決算整理や朝会の準備など、先輩社員の業務のアシスタントをする。内々定先から強制でやらされているのではなく、「早く仕事を覚えたいから」と自分で志願した。
9:00 午前の授業。米国公認会計士の資格取得を目指しているので、それに必要な会社法・租税法・簿記・会計学・監査論などを履修している。
11:00 大学近辺で昼食。大学内の学食は、お昼時になると非常に混雑するので、いつも少し外した時間に食べている。お気に入りはカツカレー。
13:00 午後の授業に出席。授業がない日はアルバイトか勉強・読書の時間に。アルバイト先の人材コンサルティング会社では、採用関連の業務をはじめ、さまざまな事業に携わる。ときどき大学編入時から所属していた陸上部に顔を出して、練習に参加することも。
19:00 外で夕食をとる。基本的に、やるべきことは夕食前に終わらせてしまって、食後は家に帰ってゴロゴロする。
23:00 就寝。ただし、先輩から呼び出しを受けたら、夜中の24時からでもかけつける(原則)。「せっかく誘っていただいたものを断ることは許されないことだと、個人的には思ってます!」。

 

off

7:00 起床。二度寝するか、たまっていた洗濯や掃除などをこなす。
9:00 近所のカフェで朝食をとりながら、新聞や本を読む。新聞は日経新聞を自分で購読。記事は、1面から経済教室のページまではひと通りチェック。
12:00 そのまま外で昼食。気分次第だが、日本食が多い。時間がないときはハンバーガーで済ませてしまう。料理はまったくできないので、食事はほぼ100パーセント外食。「自分でちゃんと体に良いものを作れるようになりたいです、いつか」。
14:00 帰宅し昼寝する。平日は総じて睡眠時間が短いので、休みの日は昼寝をすることが多い。
16:00 昼寝から目を覚まし、ウェイトトレーニングとランニング。「定期的に運動しないと体によくないと思うので。最近は忙しくてなかなかできていませんが」。
19:00 夕食。「最近、時間があるときには、友達を誘って食べログ3.5以上の店を食べ歩いています」。
23:00 就寝。

 

 

取材・文/西山武志 撮影/刑部友康

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