仕事とは?

Vol.234 <後編>藤岡 奈穂子

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ふじおか・なおこ●1975年、宮城県生まれ。古川女子高校(現・古川黎明高校)卒業後、ソフトボール選手として地元の実業団に入団。5度の国体出場を果たす。24歳からボクシングを始め、2000年アマチュアデビュー戦で勝ち、新人王を獲得。アマチュア時代は23戦20勝3敗(12K.O.)の実績を収める。2009年、後楽園ホールにてプロデビュー戦に勝利。2011年5月、WBC女子世界ストロー級チャンピオンに(35歳8カ月20日での世界王座獲得は当時日本最年長記録)。以後、WBAスーパー・フライ級(2013年11月)、WBOバンタム級(2015年10月)で女子世界王座獲得。2017年3月にはWBA女子世界フライ級王座決定戦でイサベル・ミジャン選手(メキシコ)を10回21秒T.K.O.勝ち(K.O.)で下し、男女通じて日本人初となる4階級制覇を果たした。竹原慎二&畑山隆則ボクサ・フィットネス・ジム所属。

公式ブログ・藤岡奈穂子NOW or NEVER  https://ameblo.jp/fujiokanaoko/

前編ではソフトボール選手を引退し、プロボクサーとして初の世界王座を獲得するまでの経緯をうかがいました。
後編では4階級制覇の裏にある思いや、女子ボクシング界発展のための活動についてお話しいただきます。

「無理だよ」と言われることに挑み、成し遂げる姿を見せたかった

-2011年のストロー級(別称ミニ・フライ級。上限体重47.62キロ)の後、2013年に3階級上のスーパー・フライ級(上限体重52.16キロ)、2015年にバンタム級(上限体重53.52キロ)で王座を獲得。2017年3月にはフライ級(上限体重50.80キロ)の王座を取り、4階級制覇を達成されました。複数階級制覇を狙うようになったのはなぜですか?

ストロー級でチャンピオンになった時、2度防衛した後に闘う相手がいなかったのが一つの理由です。日本の女子ボクシングの競技人口が100人ほど。しかも、全員が試合に出ているわけではありません。互角に試合ができるレベルの選手とはすでに対戦していて、同じ相手とばかりやるわけにはいかないし、明らかにレベルが下の相手に勝っても意味がない。階級を変えれば、常に挑戦者の立場で強い選手と闘うので、モチベーションが落ちないし、自分らしいと思いました。でも、2階級目を制覇するために3つも階級を上げなければいけないとは予想していませんでした。1階級上げても、2階級上げても相手がいなかったんです。

 

-とはいえ、階級を飛び越えながら闘うのは体づくりやコンディションの調整が難しく、簡単にできることではありません。
だからこそ、やりたいと思いました。初めての世界戦で、下馬評は相手のメキシコ人選手よりも自分の方がずっと下だったんです。ところが、いざ試合をやったら、周囲の評価を覆すことができた。さかのぼれば、プロ2戦目もそうでした。そういう経験をいくつか重ねるうちに、自分だったらやれるんじゃないかなという気持ちが生まれ、目標を高く持つようになりました。

 

もう一つ複数階級制覇を目指した大きなきっかけは、初めて世界王座を獲得した時に女子ボクシングがいかにマイナーかを身を持って感じたことです。マスコミにほとんど取り上げられず、世界戦で勝利を1つ収めたくらいでは誰も注目してくれない。それならば、人と違うことをやらなければと思いました。複数階級制覇という「無理だよ」と言われることに挑み、成し遂げる姿を見せれば、世の中の人たちが少しなりとも女子ボクシングへの関心を持ってくれるんじゃないかなと考えたんです。

 

ボクシングだけで食べていける環境をつくりたい

-次なる目標は5階級制覇ですね。

もともと階級数を増やすこと自体が目的ではなく、年齢も若くはないので、「制覇できるとしたら、4階級くらいかな」と思っていました。ところが、4階級制覇を達成したら、周りが当然のように言う「次は5階級だね」という言葉に乗せられちゃって(笑)。ただ、試合を組むのが難しいんです。階級を制覇するごとに新たに狙える階級の選択肢が減り、次に挑戦できそうなのがライト・フライ1階級となると、現在ボクシングの団体は4つですから、ライト・フライ級のチャンピオンは全部で4人。挑戦者を選ぶ権利はチャンピオン側にありますから、オファーして断られてしまえば試合はできません。

 

つい先日はプエルトリコでの試合が急に決まり、開催日までの3週間という短い期間で体の調整に励んでいましたが、渡航日の1週間前になって興行主の都合で試合がキャンセルになりました。海外戦の場合、一部の国では現地に行ったら練習場所が用意されていなかったり、計量の体重計が正確でなかったりと日本ではあり得ないこともよく起こります。たいていのことは驚かなくなりましたが、今回は「ここを逃しては、次のチャンスがいつ来るかわからない」と意気込んでいただけにショックでした。理不尽さにやりきれない思いですが、腐らず、次のチャンスを待ちます。

 

-応援しています! そうやってご自身の試合に向けて練習に取り組む一方で、選手仲間の皆さんと2015年に「ボクシング女子会」を設立するなど、女子ボクシングの発展を目指すための活動もされていますよね。

本当は女子だけでわざわざ集まらなくてもいい環境が理想なのですが、所属ジムで練習相手が見つからず、困っている選手もまだ多いですから、ネットワークをつくって助け合えば、「女性の体に合った減量法がわからず、体を壊してしまう」などもったいない理由でボクシングをやめる選手が少なくなるのではと「ボクシング女子会」を立ち上げました。最近は、初めて一般の方向けの「ボクシング女子会」を開催しました。トレーナーは現役のプロボクサーたち。プロと触れ合うことでファンになってもらって、試合にも足を運んでもらえたらうれしいですね。

 

女子ボクシングは2012年にオリンピック、2016年には国体の正式競技に採用され、今や部活に取り入れている学校もあります。競技人口も数年前までは年間約20人増えて同じ数だけやめてしまうような状況でしたが、最近はやめる数が減っているようです。私がボクシングを始めたころに比べたら、環境は良くなっていますが、まだまだ。一番の課題は女子に限ったことではありませんが、ボクシングだけで食べていける選手が全体のひと握りという点です。自分も上京して5年ほどは日中に内装関係の会社で働き、夕方からジムに行く毎日でした。でも、2階級制覇してしばらくたったころに会社を辞めました。

 

-食べていけるようになったということですか?

全然でした(笑)。ボクサーの主な収入はファイトマネーですが、女子の場合はチケットで支払われることが多く、自分で売りさばかねばなりません。試合の回数も年に何度もあるわけではありません。会社を辞めたら、生活が苦しくなることは目に見えていました。それでも辞めたのは、「世界タイトルを2つ取っても会社で働かなければやっていけないなんて夢がない。これでは、ボクサーを目指す人がいなくなってしまう」と思ったからです。多少大変でも、ボクシング一本で生きていけるということを後輩たちに見せたい。勤務先の会社の社長にそう話して「スポンサーになってほしい」とお願いしたところ、「わかった。頑張れ」と言ってもらえ、現在もサポートしてもらっています。

 

2017年3月のフライ級王座決定戦ではトランクスやガウンにスポンサー広告を募り、自分で営業して10社以上に協力していただきました。マスコミからの取材も以前よりは増えて、リング以外の活動も大事だなと思っています。でも、一番大事なのは、いい試合を皆さんに見せることです。あらゆる意味でプロは結果がすべてなので、厳しいですが、やればやっただけ返ってくるし、それ以上のサポートを頂けることもある。やりがいのある世界だなと感じています。

 

学生へのメッセージ

自分もそうだったのですが、社会に出る時ってわからないことばかりだと思うんです。だから、失敗も当たり前なのですが、怖いですよね。その気持ちはわかります。でも、自分の経験からお話しさせてもらうと、「やらなきゃよかった」と思うことなんて最終的には一つもない気がするんです。失敗も必ず次に生きるというか、生かさなければもったいないじゃないですか。少なくてもネタにはなります。だから、あまり深く考えすぎず、気になることにはどんどん挑戦してみてほしいです。

 

藤岡さんにとって仕事とは?

−その1 個人競技のボクシングも、1人では成り立たない

−その2 「無理だよ」と言われることだからこそ、成し遂げたい

−その3 ボクシング一本で生きていけるということを後輩たちに見せたい

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INFORMATION

藤岡さんが所属する「竹原慎二&畑山隆則ボクサ・フィットネス・ジム」(http://box-fitness-gym.com/pc/)では、男女問わず、小学生から大人まで幅広い年齢層の会員がトレーニングに取り組んでいる。ダンス感覚で楽しめるボクササイズも人気で、ダイエットや運動不足解消などを目的に通う人も多いとか。元世界チャンピオンの竹原慎二さん、畑山隆則さんの両名による直接指導も定期的に行っている。

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編集後記

プロボクサーに転向するにあたり、家族の大反対を押し切って上京した藤岡さん。当初は「1敗でもしたら、やめよう」と心に決めていたといいます。プロ初の黒星は3階級制覇に向けて挑んだ2014年のドイツ戦。敗戦のショックに加え、体調を崩しがちだったお母さんが心配で、「ボクシングをやめて、宮城に帰ろうかな」と実家に電話をしたことがあるそうです。「すると、母から『1敗したくらいで何を言っているの。しかも、私のせいにしてやめないで』と一蹴されました。あんなに反対していた母がボクシングをやめるなと言ってくれている。その事実に背中を押されて、もう一度やろうと思いました」と藤岡さん。ボクシングは命がけのスポーツ。33歳でのプロ転向から4階級獲得までの8年間には取材でうかがった以上の葛藤もあったでしょう。チャンピオンベルトの重みを感じました。(編集担当I)

取材・文/泉 彩子 撮影/刑部友康

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