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企業TOPが語る「仕事とは?」

Vol.43 SOMPO ケアネクスト株式会社

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1954年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。76年、安田火災海上保険株式会社(2002年合併により株式会社損害保険ジャパンに社名変更)に入社。04年執行役員長野支店長、06年執行役員自動車営業企画部長、09年常務執行役員東京本部長、11年株式会社ジャパン保険サービス代表取締役社長(14年合併により損保ジャパン日本興亜保険サービス株式会社に社名変更)、15年代表取締役会長。15年12月より現職。

内務部で知識を養い営業へ。仕事への自信と面白さに目覚める

大学時代の後半はテレビ局で番組制作のアルバイトをしていて、就職先はマスコミ志望。保険会社など頭にありませんでした。ところが、就職活動時期はオイルショックのあおりで、ほとんどのマスコミが採用ゼロ。そんな時、当時付き合っていた同級生(現在の妻)が教えてくれたのが、損害保険業界だったのです。偶然のような出会いで損害保険会社数社の面接を受け、とんとん拍子で内定をもらったのが安田火災海上保険でした。

 

入社後は、営業部門や保険金を支払うような花形部署での仕事を思い描いていたのに、同期80人が配属されたのは内務部。東京・武蔵境にある事務センターで、来る日も来る日も保険の勉強と申込書のチェックです。当時はパソコンなどありませんでしたから、事務センターに全国から郵送で集まってくる自動車保険や火災保険の書類に不備がないか、規定に間違いがないかなどを、人がチェックする時代だったのです。自分がイメージしていた仕事とのギャップが大きすぎて、あまり楽しいとは思えなかった。それが私の社会人としてのスタートです。

 

そうはいっても、そこは新入社員が同じ部署で勉強する学校のようなもの。徐々に競争心が芽生えてきました。度々試験があって結果が張り出されるので、ランキングが低いと「まずい」と思うようになり、保険の約款や規定を勉強するようになった。勉強して実務を覚えると人並みの知識が身についてきて、仕事への興味が湧いてきました。

 

私が配属となった火災内務課は、新人が約20人、先輩社員が約10人、そして約100人が女性職員でした。そこではチームで仕事をするので、リーダーシップを発揮しないと仕事がうまく進みません。私は、よくみんなを誘って飲み会を開いたりしていたので、上司や先輩からリーダーシップがあると思われたようで、通常は2年目には全国の営業に配属になるのですが、私を含めた若干名は、そのまま内務部で新人教育を担当することになりました。

 

後輩の教育も担当し、2年目ともなると、全国の営業店から入る保険規定の解釈などの問い合わせにも答えなければならない。「これはもっと勉強しなければいけない」と、規定集を隅々まで読み込んで必死に勉強しました。

 

入社4年目には、東京の荻窪支社に異動し、営業担当となりました。損害保険は、専業代理店や自動車整備工場などの代理店に販売してもらうシステム。私が担当したのは、杉並区から西東京エリアの代理店約100軒でした。内務部ではサポート業務でしたが、今度は入社時に思い描いていた営業です。自分が担当する代理店を指導し、時には客先に同行するという責任ある立場ですし、事務処理や保険については内務部でしっかり勉強していたので、先輩よりも知識が豊富。代理店から何かと頼りにされ、ようやく自立できたような感じがしました。

 

数値目標はありましたが、実際に販売するのは代理店です。彼らに売ってもらうために勉強会を開き、同じ目標に向かって頑張り、達成したらその喜びを分かち合う。「みんなで頑張ろう」という雰囲気だったので、数字がプレッシャーになるというよりは、むしろ楽しかったですね。

 

代理店に数字を上げてもらうために日ごろから心がけたのは、良好な人間関係を築くこと。週末や夜に飲みに行ったり、自宅に遊びに行ったり。息子さんの家庭教師までしたこともありました(笑)。そこまですると、いざというとき「遠藤のためにやってやろう」となるわけです。

 

今振り返ると、われながらよくやっていたと思いますが、あのころは私も必死でした。とはいえ、上司に言われて渋々やっていたわけではありませんでした。おかげで、営業成績は良かった。やはり、代理店との関係が良かったからでしょう。荻窪支社には4年半いましたが、営業成績はほとんど1位か2位。そのころになると、ますます仕事に対する自信と楽しさが湧いてきました。

 

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論文入選が転機となり、出向。営業から新規事業開発に転身

人間関係を大切にしながら営業で実績を上げていく一方で、「入社時ほど保険の勉強もしていないし、このままではいけない」という危機感もありました。そこで一念発起し、損保協会が毎年募集している論文に応募することにしました。1日1枚でもコツコツと書き続ければ、1年で仕上がるだろうと考え、400字詰めで100枚ほど書いて応募したところ、その論文内容が認められ、入選したのです。営業部門にいながら論文にチャレンジして入選したのは、社内では私が初めてでした。

 

しばらくすると荻窪支社に辞令が届きました。丸紅の調査情報部(現・丸紅経済研究所)への出向です。「次は、本店の営業部で大企業を担当するのもいいな」と思っていた矢先だったので、本当に驚きました。実は丸紅への出向者は、私が9代目。出向を経験した先輩には「これはバラ色のチケットだぞ」と言われましたが、その時はピンときませんでした。

 

出向先はシンクタンクのような部門で、経済調査や産業調査、マーケティング調査などに2年間携わりました。保険とはまったく関係のない業務でしたが、丸紅の社員やその取引先など損保業界では知り得ないような人たちと知り合い、その人脈はのちの大きな財産となりました。

 

出向から戻ってからは、新しいマーケットを開発するために新設された市場開発部営業情報開発室に配属。折しも外資系コンサルティング会社を入れた社内の大改革が始まり、私は、次代を担う保険のプロ代理店(専業代理店)を育成するプロジェクトの一員となりました。

 

そのプロジェクトを遂行していく中で、コンサルティング会社の担当者の考え方に触れたことが、私の仕事に対する意識を大きく変えました。それは「難しいから面白い」という発想です。あることを企画しても、こういう問題が起こるからできない。だとしたら、その問題をどうクリアしていくかを考え抜けば、どんなに難しくても必ず方法は見つかる。そうやって出来上がった方法こそがノウハウであり、他社がまねできないものになるのだと。あるいは、先に手がけたという時間差が他社との差別化となるのだと。

 

「難しいからこそ、出来上がったときに他社がまねできないのだ」という彼の考え方に、目からうろこが落ちました。それ以来、私自身も「難しいから面白い」を信念に行動するようになりましたし、折に触れてメンバーにもこの言葉を伝えています。

 

入社16年目、営業課長に昇進しました。しかし、初めての地方勤務で、赴任先は縁もゆかりもない九州の長崎支店です。そこでは五島列島も担当エリアで、部下の代わりにフェリーで島に渡りながら「これを左遷というのかな」という思いが頭をよぎりました。

 

しかし、心にあったのは先輩から言われた「いつか本社に戻るなんて思ってはいけない。『長崎に骨を埋める気持ちだ』と周囲にも言い、自分にも言い聞かせろ」という言葉でした。いずれは帰るという素振りが相手に伝わったら、そこで人間関係が終わり、仕事もうまくいかなくなるからです。ですから私は覚悟を決めて、妻と子どもも連れて行きました。

 

長崎には3年いましたが、赴任先の仲間とは今でも交流があり、私にとって第2の故郷となりました。あの時の先輩の言葉がなかったら、これほどの関係は築けなかったでしょう。損害保険会社は転勤が多くて大変ですが、今でも転勤する部下には同じ言葉をかけています。

 

課長時代はプレーイングマネージャーとして必死でしたが、部長や役員になると、会社や部下の大きな期待感を背負って仕事をするようになります。課題が大きくなると、期待値だけでなくプレッシャーも大きくなる。しかしその分、成し遂げたときの達成感も大きくなりますし、その喜びは自分一人のものではなく、会社全体の喜びに増幅されるのです。

 

30代で「難しいから面白い」という言葉に出会って以来、さまざまな課題に挑戦してきました。
57歳で赤字経営だった保険販売会社の社長に就任した際には、7年の短年黒字計画のところを、3年で黒字化を達成しました。その時の全社員の喜びようは、今も忘れることができません。約40年にわたって私を突き動かしてきた原動力は、難題を達成し、みんなで喜びを分かち合えた時の達成感なのだと思います。

 

そして60歳を過ぎた今、また介護事業という責任ある仕事を任され、「やりがいを持って仕事をすることが、人生を充実させる」ということを再確認しています。私にとって仕事とは、人生を充実させるものであり、自分をイキイキと元気にしてくれるものなのです。

 

新人時代

新人のころは、辞めてしまおうかと思ったこともありましたが、良い先輩、良い課長に巡り合って、潜在的な力を引き出してもらえたと思っています。その最初のきっかけが、「教わったこと、感じたこと、本を読んだ感想などを、何でも書き留めろ」という先輩からのアドバイスです。ノートにストックしておいたことが自分の知識になり、自信につながっていきました。この習慣は、今でも実践しています。

 

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中学・高校時代に習い、柔道は2段。入社3年目、会社の柔道部の合宿で、湯河原の保養施設に行った時

プライベート

プライベートでは、ライブ活動がライフワークです。私はギターとボーカルを担当。高校時代にギターを始め、大学ではフォークソング研究会に所属していました。30年前に、テレビ番組の『三宅裕司のいかすバンド天国』に出場した社員に声をかけてバンドを結成し、年に1、2回ライブを開いています。バンド名は、ゾンビバンド。消えそうになるとまた出てくるからです(笑)。

 

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写真は15年6月、有楽町で開催したライブ。同年、銀座のヤマハスタジオで結成30周年記念ライブも開催した

 

取材・文/笠井貞子 撮影/刑部友康

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