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掲載日:2010年1月18日

Vol.07 日本マクドナルド株式会社 創設者 藤田田氏

語学力を活かし、若いうちから商売に頭角を現す

「食事をしながら話しましょう」
と藤田田が言ってきた。インタビューを申しこんだときの返事だった。

相手は日本マクドナルドの大社長だ。

イタリアンか、フレンチか、料亭かをイメージした。

ある日、期待して西新宿のマクドナルド本社を訪れた。オフィスに案内される。お茶が出たあと、トレイに乗ったハンバーガーと紙コップのコーヒーが出てきた。新製品でも見せてくれるのかなと思ったら、
「やぁ、針木さん、一緒に食べよう。おいしいよ」と、自分の机の上のトレイを取り上げてイスに座った。トレイのなかは当然のように、マックのハンバーガーとコーラだった。

「いつも昼はハンバーガー?」聞いた。

「いや、普通、昼はケツネうどん(大阪弁)やな」

「―――」

「ボク、神戸生まれだから、東京の真黒い汁がいやでね。関西のケツネうどんじゃないとダメなんだ」と藤田。

「ハンバーガーじゃないんですか?」と聞き返した。

「あまり好きじゃない(笑)。ハンバーガー屋だからハンバーグ食べなきゃならんという理由はないんだよ。ハンドバッグ屋のオヤジがハンドバッグ持って歩きますか?」
ときた。

「ハンバーガーは子どもたちに食べてもらいたいと思ってるんですよ。子どものときに食べたものって絶対、忘れないんですよ。年取っても食べますし、また自分の子どもも連れてくる(笑)」と藤田。

「それと、若いうちに商売の資金を溜めることだね。資金は雪ダルマの芯のようなものでね。芯がないと雪ダルマはできないんですよ。それを種銭というのだが、針木さんは種銭を持っていますか」ときた。こっちは一介の経済記者でサラリーマンである。種銭があるわけないし、若い頃から貯金なんて考えたこともない。

「ダメですよ。種銭になる金を貯めないと。ボクはね。東大の学生の頃、その頃はもう商売をやってましたけどね。毎月、3万円ずつ貯金したんですよ。三十代になった頃、それを1カ月10万円にしたんです。

金が欲しいときもありましたよ。車買うとか、家を買うとか。でもこれに手をつけるようではオレはダメだと思い、50年間、つづけましたよ」

1カ月=10万円として年に120万円。元金だけで10年で1200万円か。50年で6000万円。金利がつくから一億円はいくかな? と私。結構な種銭の額である。

高校時代の孫氏と面会し、その運命を変えるきっかけに

藤田の父親は神戸の貿易商だった。外国人相手の商売だったから外国人に慣れていた。彼は学生の頃から、商売に目覚め、進駐軍で通訳のアルバイトをし、時にはクーラーを進駐軍が買い付ける話を小耳にはさみ、自ら買い付けて納入して口銭を儲けた。

社会に出て、まずクリスチャン・ディオールの総代理店になった。

アメリカのマクドナルド本社が日本に商権を売りたいという話を聞き、単身アメリカに乗り込んだ。

マクドナルドを始めたのはマクドナルド兄弟だった。笑ってはいけない。おいしいハンバーガーは売れに売れた。その店を買いにきたのが、のちの社長のクロックだった。兄弟から10億円でマクドナルドを買った。兄弟は大喜び。クロックはそれをチェーン化してアメリカ全土に店を出した。

藤田がクロックを訪ねたとき、クロックは名刺をトランプのように掴み「300枚あるよ。日本の商社の人やダイエーの中内さんもきた。でもサラリーマンには熱意はないし、ミスター中内さんは買ってやるという高姿勢だったから断った。キミは熱心だし、日本で成功できそうだからキミに売るよ」と言われた。

日本での株式を二人で半分ずつ分け、売り上げの一割をクロック側が取るという契約だった。日本での一号店は約40年前、銀座四丁目に建つ三越銀座店の角だった。開店の日、三越を客が取りまいた。

「英語読みだとマクナードと呼ぶが、ボクは日本ではダメだと思いマクドナルドと三音三語にした。この呼び方も日本でなじんだね」と藤田。

彼は銀座角のマクドナルドに成功したとき『ユダヤの商法』という本を書き、ベストセラーになった。その頃、藤田のところへ佐賀県の高校生が一人訪ねてきた。本を読んで藤田に会いたいという学生は多かったが、そのなかで一週間通い続けた孫正義という高校生に藤田は会った。

のちに孫氏は「あの本で事業にはカネが必要。カネを軽蔑してはいけない。カネがすべてのエネルギーにかわるということを藤田さんから学んだ」と言った。

孫は、その後、アメリカに留学してアメリカの友人と一緒に「音声翻訳機」なるものを開発し、孫はそれを日本のあるメーカーに1億円で売って、種銭にした。「この機械はいまとなれば幼稚なものかもしれないが、当時のメーカーにとっては値打ちがあったんですね」とあとになって孫は語っている。

その資金で始めたのがソフトバンクである。

初めは、その名の通り。ITソフトの仕入れ販売から始まった。種銭でオフィスを借り、人件費を払い、彼のビジネスがスタートした。

さらに、そのソフトバンクを上場して、2000億円もの株式売却益を出して、いまのソフトバンクにまで企業の巨大化に成功したのである。

藤田と孫が再び会ったのは、それから40年後だった。「あの時、藤田さんはこれからはコンピュータの時代だよ、と言ってくれた。そのヒントの結果、僕はソフトバンクを創った」とその教訓のありがたさを語っている。

藤田を本社に訪ねたとき、私はあることに気がついた。応接室にも社長室にも白いプラスチックのカードに「103.5平方メートル」とか「78.4平方メートル」などと数字が書いてあることだった。

「社員に店舗の広さの概念を植えつけようと思ってね」と藤田。さらに「すべては数字なんですよ。例えばハンバーグを焼く鉄板の厚さは32ミリ、表面温度はセ氏188度で3分半焼きます。それをお客さまに注文されてプラス32秒でお渡しする。温かいもので人が一番おいしい、と感じるのは62度。61度でも63度でもダメ。水がおいしいのは4度。そしてお客に出すとき、若い女の子がにっこり笑って、コカ・コーラはいかがですかと一声かける。そこで3秒間だけ客が催眠状態に陥るんです(笑)」と藤田。こうなると数字と心理学の世界である。

藤田田氏 略歴
1926年
大阪府に生まれる
1950年
藤田商店設立
1956年
株式会社藤田商店に改組、代表取締役社長
1971年
日本マクドナルド株式会社を設立、代表取締役社長
1986年
藤田商店会長、藍綬褒章受章
1989年
日本トイザらス副会長
1999年
ソフトバンク社外取締役
2002年 
日本マクドナルド代表取締役会長
2003年
日本マクドナルドホールディングス会長退任
2004年
死去(78歳)
著者プロフィール
針木 康雄 はりきやすお
1931年生まれ。月刊『BOSS』主幹、経済評論家。早稲田大学文学部中退。57年、雑誌『財界』に入社。編集長、主幹を経て83年同社を退社、評論活動に入る。88年月刊『経営塾』を創刊、03年6月から月刊『BOSS』に改題した。シリーズ『経営の神髄』7巻(講談社)ほか著書多数。財界のご意見番ともいわれる。
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イラスト/ほししんいち デザイン/ラナデザインアソシエイツ

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