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掲載日:2009年8月5日

Vol.03 日本電気株式会社 元社長・会長 関本忠弘氏

プロ棋士との対局でも、攻めの姿勢を貫く

いま「NEC」というと数あるコンピューターメーカーの一社というぐらいの認識だが、この稿の主人公、関本忠弘氏がNEC社長、会長時代(1980−98年)の社名は光り輝いていた。関本氏は、ソニーにおける盛田昭夫氏と並ぶ国際的知名度があり、彼の率いるNECはIT業界では超一流の会社だった。

「経営は人なり」という。その会社を社長として誰が牽引しているかは大事なことで、一般ユーザーから見ても、取引先、株主から見ても、人望のある高名な社長が存在することで、その会社の力がわかる、勢いがわかるという有利さがある。

関本氏のどこが魅力的だったか。それはすべての点でアグレッシブだったことだ。彼の性格が一番強く表われたのは実力七段の囲碁の打ち方だった。

囲碁の殿堂といわれる日本棋院のなかで、次の理事長は関本氏だと言われていた。人気棋士と碁を打ち、そのあと酒食を共にするのが楽しみだった。プロと打つときはだいたい黒を持って五子置く(ハンディをつける)のが普通だが、彼は対局となると相手がプロだということを忘れて、白を攻めまくるのである。

ある夜、彼は元名人の大竹英雄棋士を相手に五子を置き打ち始めた。そのときも、いつもと同様、白に厳しい攻撃を行った。そばで観戦中の私は彼に「行こう」と言った。「相手を殺せ」という意味である。彼は「うん。やってみよう」と言って、果敢にも白石を取りにいった。ところが相手はさすがプロである。うまくかわされて逆に黒石が攻められる結果となった。最後はお決まりのように白の圧勝。

「針木さんが余計なことをいうから死んじゃった」と悔やむ関本氏。以来、何かというと、この話を持ち出して「勝てる碁を針木さんのひと言でおかしくしてしまった」とぼやくこと、ぼやくこと。

ビジネスでも同じ。常に攻撃的だった。パソコンのシェア25%はトップシェアだったが彼としては不満だった。会議の席でも部下を叱咤した。「なぜもっと売らないんだ」と大声を出した。「囲碁と同じですよ」と秘書の話。常にアグレッシブな人だった。

日米外交に貢献するなど政財界に影響を発揮

財界では「暴れ馬」という仇名だったし、当時、竹下総理のことを「タケちゃん」と言って肩を叩き、小沢一郎のことを「イッちゃん」と気安く呼んだ。

つまり、関本氏という名の影響力が政治家にとって無視できない存在だった。例えばアメリカとの間で経済摩擦が起これば、まず関本氏の意見を聞いてから対策を練るという意味である。存在感を高めたのは、NECの企業力の強さもあった。何しろ、全盛時、NECのパソコンのシェアは常にトップで一時ダントツの70%もあった。関本社長時代後半にIBMはじめ、世界のパソコンメーカーが日本市場に登場したが、それでもシェア25%を切ったことはなかった。

もともとNECはNTTが日本電電公社の頃から、電電公社の取引先の一つだった会社で、コンピューターに進出するまでは、いち通信機メーカーとして電電公社が生死を握る立場だった。 それが関本氏が社長をつとめるようになってから、洗濯機、冷蔵庫など電気製品からコンピューターまでと事業分野を広げ、IT企業のトップにのし上がった。すべては関本氏の馬力とエネルギーの結果だった。

経団連の副会長となり、関本氏はますます存在感を高めた。国際会議ではまず議長に選ばれるとか、海外の財界使節団が来日すれば日本側の責任者として相手とシェークハンドした。つまり「華のある財界人」と言ってよかった。

あらゆるパーティーに彼は顔を出した。

彼が出席するパーティーは一流のパーティーとして評価された。パーティーではすべてのVIPが彼を取り囲み、新聞記者も彼の談話を求めた。

パーティーでの関本氏は、常に唇をツバで濡らし、そのツバを相手にとばすほど、近づいてしゃべりまくった。

彼が書いた著書の数は2ケタにのぼるほどで、現存の社長で彼ほど本を出した人はいないだろう。執筆活動は1990年から十数年にわたり、テーマはすべて自分の主張がそのまま題になった。例えば『限りなき繁栄への挑戦』『日米摩擦いま何が問題か』『このままでは生きられない』『感じて信じて行動しよう』『21世紀何を変えるかどう変えるか』と常に前向きなテーマだった。

 

あまり売れなかったのは自己主張が強すぎて読者がヘキエキするからだと私は思っていたが、そこが彼の真骨頂だったとすれば納得はいく。

関本氏のような存在は、いまの大企業の組織経営のなかでは見当たらない。誰に対しても堂々と話す理論家。海外の要人にも臆することはなかった。一生を本音で過ごした人だった。

NECに第2の関本が出でよ、と祈ってペンを置く。

関本忠弘氏 略歴
1926年
兵庫県神戸市に生まれる
1948年
日本電気株式会社入社
1972年
伝送通信事業部長
1974年
取締役
1980年
社長
1994年
取締役会長
1995年
レジオン・ド・ヌール勲章受章
1996年
IEEE アレキサンダー・グラハム・ベル・メダル賞受賞
名誉大英帝国勲章KBE受勲
1997年
勲一等瑞宝章受章
1998年
経団連評議会議長
日本電気取締役相談役
2000年
国際社会経済研究所初代理事長
2002年
日本電気取締役相談役退任
2007年
死去(80歳)
著者プロフィール
針木 康雄 はりきやすお
1931年生まれ。月刊『BOSS』主幹、経済評論家。早稲田大学文学部中退。57年、雑誌『財界』に入社。編集長、主幹を経て83年同社を退社、評論活動に入る。88年月刊『経営塾』を創刊、03年6月から月刊『BOSS』に改題した。シリーズ『経営の神髄』7巻(講談社)ほか著書多数。財界のご意見番ともいわれる。
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イラスト/ほししんいち デザイン/ラナデザインアソシエイツ

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