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掲載日:2010年8月30日

Vol.12 株式会社産経新聞社 創業者 前田久吉氏

世界一のテレビ塔の実現に勇敢にも名乗りを上げる

7月末、土曜日の夜、私は駒形橋のほとりにある浅草むぎとろの屋上から、隅田川花火大会を楽しんでいた。暮れなずむ北の方向に建ちかかっている東京スカイツリーが眼に入った。

全長634メートル。宮本武蔵にちなんでの長さだそうだが、その日はちょうど400メートルを超えたと報道された日。三本足のスカイツリーがはっきりとその姿を現していた。視線を南向きに移す。この日は霞んで見えなかったが、その方向には、それまで首都東京の空を支配していた東京タワーの偉容が見られるはずだった。

東京タワーが正式にオープンしたのはいまから半世紀ほど前。昭和53年(1958年)のことである。

それまで東京地区には、テレビ塔が3本立っていた。東京麹町の日本テレビ(本社・当時)敷地に1本、グランドプリンスホテル赤坂の旧館横にNHKのテレビ塔が1本、さらに、赤坂TBS本社用地に1本。当時の工法での高さの限界は、160メートル。一番高かった日本テレビ塔で170メートルを誇っていた。ほかに名古屋にも1本、立っていたが長さは160メートル。つまり日本テレビの塔だけが一番高かった。

それは、日本のテレビ放送の嚆矢(こうし:先駆け)とされた日本テレビ社長の正力松太郎が建てた自慢のテレビ塔だった。

NHKとTBSがこの後を追ったのだが、当時の正力松太郎は読売新聞社主としてそのパワーを全快。さらに人気の読売巨人軍オーナーという立場もあり、正力松太郎と言えば、時の総理をもしのぐほどの力があった。

この正力に日本テレビのテレビ塔よりはるかに高い「東京タワー」を建てようという男が現れた。この稿の主人公の前田久吉である。

正力が言った。

「なに?328メートル?そんなものは無用の長物というんだ。我々は今のテレビ塔で十分なのだ。そんなもの許さん!」

正力の怒りは尋常ではなかった。

しかも相手は新聞界にも波紋を広げていた。前田久吉と言えば大阪で大阪新聞という夕刊紙を起こし、戦時下の新聞統合で、朝日、毎日と肩を並べる存在になっていた。

しかも、しかもである。東京で新聞界の一角を占めていた時事新報を買収して、新たに産経新聞として東京に殴りこんでくるというのだ。その前田久吉が世界一のテレビ塔を芝公園に建てるという。

「許すものか」と正力。当時の世相は激しかった。高度経済成長時代に入り、強いものが勝つのが当然という時代だった。

正力は当時の郵政省電波管理局長だった浜田成徳のところへ乗り込み「まさか、あんたは許可せんでしょうな」と凄んだ。浜田という男も並みの官僚ではない。東京大学電機工学科出身、東芝電子工業研究所長、東北大学教授。語学は英、独、仏、希、羅典、ヘブライ語まで操るオールマイティの男である。しかもテレビの電波の割り当ての権限を持っている。この男の一声で何億というカネが動くというポストである。

さすがの正力も歯が立たなかった。

浜田は前田久吉が申請した「日本電波塔」という会社にさっさと認可を下ろしてしまった。

浜田には理屈があった。

すでに「大テレビ塔必要論」を日々書いていた。浜田に言わせると、今の3つのテレビ塔の電波の出力は10キロで電波の到達距離は60キトメートル。これでは水戸、宇都宮、高崎、甲府、沼津地方ではテレビの写りが悪い。テレビの出力を50キロにして到達距離を90キロメートルに延ばせば関東一帯に電波が届く。

「それに3本の低いテレビ塔が立っているのはみっともない。国辱ではないか」と浜田は言った。

それに呼応するように、勇敢に手を挙げたのが前田久吉だった。

新聞配達から身を起こし、前代未聞の偉業を成す

前田は大阪府下の貧しい農村に生まれ、子どもの頃から新聞配達をしながら育った男だ。その地域で新聞を立ち上げ新聞販売店主などを経て、大阪の新聞王などと言われた。一方の正力は東京大学から警視庁に入り、最後は警視総監間違いなしと言われながら、報知新聞の再建を頼まれ、読売新聞という日本一の新聞王になった男だ。

当時、新聞界は朝日、毎日、読売の3大新聞時代で、ここにかかってきた前田という男を「うさんくさいヤツだ」とまで言った。

正力の反対をよそにテレビ塔は次第に姿を現してきた。一辺90メートルという4本の足が盛り上がってくると、東京中の話題になったものだ。

「エッフェル塔より10メートル高いんだって?」と江戸っ子は誇らしげに見上げる。

1本の基礎部分は深さ20メートル。そこに直径2メートルの八本のコンクリート柱の上に7メートルのコンクリートの基礎を打ち込んだ。

「台風と地震。どんな災害が起こっても大丈夫だ。関東大震災や史上最大と言われた室戸台風級の風速40メートルがきたってビクともしないよ」

塔の中央部に5階建て延べ6000坪のビルが建てられた。2階が食堂、売店、事務所、3、4階には近代科学館が入り、5階がテレビ放送室になる。

前田のくどいほどの話には、新聞記者もうなずかざるを得なかった。さらに高さ115メートルのところに2層の展望台を設け、3台のエレベーターで観光客をさばくという。晴れた日には、展望台から富士山はもちろん、赤城、榛名はじめ、南北アルプス、伊豆、三浦半島、房総まで見渡せる。

「アメリカまでは見えないけどね(笑)」と前田。豪快に笑い飛ばした。

しかし、実際は、そんな呑気なものではなかった。施工費は20数億円かかる。今で言うと数百億円だろう。その資金をどうするか。1日1万人来場して1人100円の入場料。これで採算がとれるか。

さらに正力の日本テレビがアンテナ取り付けに参加してくれるのか。

電波監視局長の浜田が前田に忠告した。

「大正力にだけは頭を下げたほうがいいよ」と。「浜田さんに言われちゃ、しょうがないからな」と前田は憮然としたが、すべては東京タワーを建てるためである。

前田久吉が当時有楽町にあった読売新聞社ビルの正面玄関に現れた。正力との初めての出会い。さらに難しい交渉である。前田は浜田の忠告通り、正力の前で最敬礼をした。「正力さん、日本テレビのアンテナをぜひうちのタワーに乗せてください」と。小柄な前田、一方の正力は柔道9段の猛者である。前田が深々と頭を下げたことで、正力の面子は立った。

読売新聞社の玄関を出た時の前田は「韓信の股くぐりさ」という晴れやかな表情。前田が大きく見えた。

前田久吉氏 略歴
1893年
大阪府に生まれる
1913年
大阪府で新聞販売店を開業
1922年
南大阪新聞(のちの夕刊大阪新聞)を創刊
1933年
日本工業新聞を創刊
1941年
日本工業新聞が業界紙を統合し、産業経済新聞になる
1950年
大阪不動銀行(のちの近畿大阪銀行)を設立
1958年
東京タワーを開設
1960年
千葉県にマザー牧場などの観光開発を実施
1965年
勲一等瑞宝章を受章
1986年
死去(93歳)
著者プロフィール
針木 康雄 はりきやすお
1931年生まれ。月刊『BOSS』代表、経済評論家。早稲田大学文学部中退。57年、雑誌『財界』に入社。編集長、主幹を経て83年同社を退社、評論活動に入る。88年月刊『経営塾』を創刊、03年6月から月刊『BOSS』に改題した。シリーズ『経営の神髄』7巻(講談社)ほか著書多数。財界のご意見番ともいわれる。
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イラスト/ほししんいち デザイン/ラナデザインアソシエイツ

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