26歳で初の海外出張。世界へ「電解槽」を売り込む
生来があまのじゃくなんでしょうか。大学では熱工学や熱力学など燃焼系の研究室だったので、同級生の多くは自動車や重工業系に行くのですが、例えばエンジンならずっとエンジンというのは何となく歯車的なイメージを感じ、周りとは違う方向を目指すことにしました。いろいろな企業を見る中で、製造設備などを扱うエンジニアリングの世界に興味が湧いて、スマートさや派手さはないけれど日本を支えるダイナミックな産業という印象を持ったんです。最終的には化学会社の工場、現場を実際に見学する中で、「これは機械屋ができることがいろいろありそうだ」とやりたいことが固まった気がします。
入社後はまず、千葉工場で3交代制の主任実習。「なんか話が違うぞ」と思いましたが、あの時代がなければ自分は今ここにいないでしょうね。設備のこと、細かいオペレーターの動き、彼らがどういう観点でものを見ているのか、オペレーションしているのか、考えているのかっていうのは、3交代ですべての時間を見ないとわからないんです。これは大きかった。現場はみんないい人たちで、お客さま扱いせずよく怒ってくれました。僕も勝手がわからずに飛び込んだというのもあるのですが(笑)。
そこで仕事の流れを覚えると、半年後には機械系のメンテナンスの担当として、いきなり現場の部下を4人持つ立場になりました。彼らにコストの改善やより効率的なやり方を提案するのですが、みんな現場叩き上げのプロ。若造の言うことなんて聞く耳を持ちません。でも、そこで簡単に引かずにどこまで粘れるかを実は彼らも見ているんです。知識、技能的には明らかに彼らが上な部分も多いので、それを教えてもらわないとこちらも仕事になりません。言うべきことを言って最終的には「申し訳ないけどこうしてほしい」と一致点を探っていくんですが、ときには向こうも「ダメなものはダメだ!」と熱くなって、互いに5日間も会話しなかったこともあります。でも、5日ぶりに夜の10時ごろ「上原さんも意固地だなー」と向こうが折れてくれたときは、ものすごくうれしかったですね。向こうは最後まで「でもそっちが間違ってるぞ」って言っていましたけど(笑)。モノづくりはごまかしがきかないし、化学工場の場合は、ちょっとしたミスが事故につながってしまいます。だから妥協は許されない。逆に限られた条件で改善がうまくいけば、目に見えて数字が良くなり、収益にもつながります。ダイナミックで手応えのある世界です。
入社4年目、26歳の時に初めて海外出張に行きました。一緒に行くのは45、6歳のプロセスエンジニアリング担当、計装関係、必要に応じて電気関係の3~4人編成チームのメンバー。無謀なことに機械系出身エンジニアは私1人でした。行き先は中国、韓国、台湾、シンガポール、ヨーロッパなど。例えば中国なら北京経由で北は瀋陽、南は広州、西は成都といった調子で26歳から36歳までに40回以上は通いました。チームの主なミッションは、旭硝子がノウハウを持つプロセス、製造設備などの技術を海外へ輸出すること。主に電解槽(塩水を電気分解を行う装置)を扱っていました。プラント規模最大100億円クラスが中心の電解槽およびイオン交換膜を売って、周辺プロセスを設計して、調達して、建設して、試運転して帰って来るイメージです。
その仕事の中で、ちょうど27歳か28歳のころ、韓国で大きな電解プラント新設のプロジェクトがありました。この時の旭硝子側のプロジェクトマネージャー(プロマネ)と相手方の韓国人のプロマネが仕事中は丁々発止のやりとりをするのですが、最終的に「これは俺とお前のプロジェクトだからな」と手を握り合っていたんです。そのかっこよさに憧れ、「俺もエンジニアとしていつかこうなりたいな」と思いました。プラント輸出の場面では、営業、契約、設計、調達、試運転指導、設備管理、売上計上、資金回収、FS(財務諸表)、M&A(企業買収)などの業務をマルチにこなす能力が求められます。機械技術は一つのファクターに過ぎなくて、プロマネは、まさに「スーパープラントエンジニア」というべき存在。27、8歳でその仕事を間近に見ることができたので、自分のやらなければいけないことがたくさん見えてきました。彼らは当時41、2歳だったので、どうしたら早く彼らに追いつけるか、そのステップを自分で勝手に描いたりしましたね。
入社15年目の98年まで海外でのエンジニアリングの仕事が続きましたが、実は、99年11月に上海のある企業の40周年パーティーがあった際に、その業績を認めていただき、日本人として唯一現地で表彰していただきました。いただいたのは表彰状一枚でしたが、大変な思いをした分、そのかいがあったなとあらためて実感できました。
機械屋の領域を飛び越え、システム改善の先陣を切る
入社10年目の93年ごろのことです。当時国産のメールソフトなどが出始めていたのですが、社内の関心はまだ低く、FAXと電話とテレックスがあれば事足りるという考え方でした。100ページ以上もある契約書の作成の際に、ワープロで出力してそれを切り張りしたりしており、非効率な状態が続いていたんです。当時はAutoCADが普及し始めたばかりで、設計図をアウトプットするのにA1一枚の印刷に約20分もかかっていました。昼から30枚印刷するとしたら夜中になってしまいます。みんな切り張りして夜中の11時まで残業しているのを見ながら、「何とかしないと、この部の競争力がなくなる」という危機感を抱きました。
システムは本来、機械屋の守備範囲ではありませんでしたが、ほかのプロジェクトエンジニアたちが扱っていない分野を自分が仕切ることで、彼らに勝てるポイントが生まれるチャンスだと思いました。今思えば素人のような自分にソフトの海外調達も含めてよく任せてくれたなと思いますが、旭硝子は想いがうまく伝えられれば、自分のストーリーが実現できる会社。私は営業、システム、経理、業務、総務すべての仕事に顔を突っ込み、改善運動を推進しました。一台数百万円もするデスクトップパブリッシングのマシンを導入したり、エンジニアリングCADのシステムを一から構築して立ち上げたり、営業支援システムをはじめ各種の業務支援システムを導入したりなど部全体のIT化を一気に進めました。システム開発だけでトータル数千万円くらいの投資でしたが、結果的には今でも誇れる仕事ができたと思います。
ある意味執念、ある意味好奇心、限界を簡単に設けないこと、そして社内だけでなく、社外の人とも本当の信頼を勝ち取ることが、自分を成長させるポイントだと思います。何事も一人ではできないことばかりですが、何でもいとわずにやること、その中から信頼を得ること、そしてその行動をスピーディーに実行に移すことが大切。常に100点を目指すのではなく、150パーセントの仕事を70点でやりきること。それでもかけ算をすれば結果的には105になります。また毎日0.1パーセント伸びるとすると、365日で44パーセント伸びるって知っていましたか? あきらめずに、いやがらずに目標高く背伸びしてやることが大切だと思っています。
現在は化学品部長として千葉工場長を補佐し、千葉工場の運営に携わっています。安全衛生、環境、保安防災、品質の確保による地域共生の生産活動を実行、さらに千葉工場の将来像の策定、ならびにその実行を製造、開発、施設、職能とともにリーダーとして行っています。目下、「チャレンジ100活動」というロスコスト“0”の理想工場実現に向けて、具体的施策を実行中。幅広い結構大変な仕事です。自分の次の課題は、ビジネス。事業をどのように構築し、利益を生み出していくか。チャンスがあればぜひトライアルしたいですね。
学生の皆さんに言いたいのは「とにかく現場に飛び込め」「五感で感じろ」「行動しろ」ということ。あれこれ考える前にまずは行動。そこで経験してから物事をまた次に進めていけばいいのです。今はいろんな情報が簡単に手に入るので、その情報ですべてをわかったような気になりがちですが、それは大きな間違い。答えは常に現場にあります。また、社会に出たら教えてもらうという考え方は捨てること。盗んでやる、教わってやる、やってやるという攻めの姿勢が大切なんです。待ちの姿勢ではまったく成長がありません。現状維持は後退するということです。モノづくりとは愚直な作業が多いので、一通りやったと思うまでは仕事を選ばず、そこでのベストを尽くすことが大切です。やるべきことの範囲は太平洋のように広いですが、そこから優先順位をつけて背伸びして行動すること。事実の定量的解析、そこから勉強、新しい発想と、とにかく愚直なトライの連続が、皆さんの成長にとって必要なことです。
上原さんに質問!
Q1.どんな学生だった?
Q2.入社後、いちばん苦労したことやギャップを感じたことは?
Q3.休日の過ごし方は?
スポーツ大好きで、何より今はゴルフをすることで心の平穏を保っています。会社とは違う雰囲気を味わうために、ゴルフクラブの会員となり、異文化の方といろいろな情報交換をしています。
Q4.学生にお勧めの本とその理由は?
取材・文/高山淳 撮影/丸尾和穂 デザイン/ITコア