いい仕事をすると、お客さまにも喜ばれ、利益もついてくる
ヤマト運輸との出会いは、大学2年生の時。1カ月ほど、深夜0時から朝6時までお歳暮仕分けのアルバイトをしました。ベルトコンベアーで流れてくる荷物を地域別に分けていく仕事です。寒くて眠いのはつらかったけれど、仕事は楽しかった。荷物の積み方一つでも、工夫をするとたくさん積めたりするのが面白かったんです。
就職活動が始まり、どんな仕事をしたいのかイメージが定まっていなかった私は、大学の就職課に相談。ヤマト運輸を紹介され「とにかく先輩訪問をしてみなさい」と言われ、会いに行きました。すると、その先輩は旅行代理店部門で楽しそうに仕事をしていて、1時間ほど熱心に語ってくれました。数日後に面接に行くと、聞かれるのは所属していた体育会テニス部のことばかり。特に良い印象を与えられた感触はなく「ダメかな」と思っていたら、次は人事部長面接に呼ばれ、内々定が出ました。驚きましたが、「内定がもらえたのは、縁があったのだ」と思い、入社を決めました。
入社後3年間はジョブローテーションで、1年目は神戸中央営業所(のちの神戸中央支店)で現場を、2年目は関西支社の総務で管理業務を経験。3年目は宅急便ではない業務ということで、引っ越し業務を半年、国際事業本部での通関業務(貨物の輸入および輸出など、貿易における法的手続きのこと)を半年経験しました。
強烈な原体験となったのは入社1年目。「仕事は、待っているのではなく自分で探し、わからないことは聞いて成し遂げるもの」ということを、身をもって学びました。当時の仕事は現場完結でしたから、1年間で仕分け、配達、お客さま対応、営業、帳簿付けなど、あらゆる仕事を経験しました。
特に感動したのは、上司のスーパーマンのような仕事ぶりです。副所長は、何を聞いても答えられるし、お客さま対応、営業、セールスドライバーへのリーダーシップも完璧。「早くあの人のようになりたい」と、がむしゃらに働きました。
とはいえ、新人時代はお客さまによく怒られましたね。当時は、営業所ですべての電話に対応していたので、所内にいると苦情電話も入ってくるのです。ただ、それがつらかったかというとそうでもなく、お客さまのご不満の原因を解明して結果的に解決できたりする小さな達成感が、喜びでもありました。
現場を担当していた当時、セールスドライバーからもたくさんのことを教わりました。最初は足手まといな新人であった私も、仕事を覚えるにつれ頼られるようになり、先回りして彼らのプラスになるような仕事をすると、喜んでもらえるようになった。印象に残っているのが、ある日の朝礼で「エレベーター付きのビルにばかり営業に行くな。同業他社も嫌がる階段だけのビルに行ってこそ、お客さまに喜ばれる」というセールスドライバーの班長の発言です。しっかりとお客さまの方を向いて仕事をし、言葉だけでなく自ら行動で示している姿を見て、リーダーシップの大切さを学びました。
本配属前の面談では現場を希望し、人事課長に真顔で驚かれました。「管理部門は、女性社員も多く、時間の融通もききそうでいいな」という思いも頭をよぎりましたが、やはり私の中では「早く営業所の責任者になりたい」という思いが強かった。そのためには「もっと経験を積まなくては」と思い、現場を希望したのです。
こうして4年目は、再び神戸中央支店へ。ここは私が新人時代を過ごした営業所が支店になった拠点で、当時の所長が私を引っ張ってくれたのです。そこで経験を積み、入社6年目にして、六甲道営業所の所長になりました。六甲道営業所の配達先は個人宅が多く、ほかの地域に比べ不在の再配達もたくさんあり、セールスドライバーも不足していたため、毎日がむしゃらに働いていました。「これは早く戦力を増強して、皆が気持ちよく働ける店舗にしなくては」と強く思いました。
1995年1月には、阪神淡路大震災を経験、営業所も被害を受けました。所長の私が動揺しているとほかの社員が戸惑うので、次々とプランを出しては実行していきました。まずは神戸中央支店に間借りし、空き地を借りてトラックを入れ、青空の下で仕分けをしたりして業務を再開。4月には仮店舗を確保し、何とか営業を再開。今振り返れば、よく頑張ったと思いますが、渦中にいたときはただただ必死でした。
六甲道営業所で2年半ほど所長を続け、異動するころには戦力も整い、目標時間に閉店できるようになりました。うれしかったのは、私の送別会にパートの人たちも含め、全員が参加してくれたこと。「所長、ありがとな。良い店になったよ」という、いつもは寡黙なベテランのセールスドライバーの言葉が、とても心にしみました。
ですが、余韻に浸る間もなく、翌日からはまた次の店です(笑)。次に所長を任されたのは、当時は決してメンバーの士気が高いとはいえない営業所。指導し続けて半年、ようやく業務全体の効率が良くなってきたと思っていた矢先に、ある人から「所長の目の届かないところでは社員の意識は変わっていない」と聞かされ、心底がっかりしました。入社して初めて「辞めようかな」と思いましたが、「自分が辞めてはその人たちの意識が変わらない」と思い直しました。
結局3年半そこで所長を続けました。その間、営業所が最も忙しくなるお歳暮を4回経験しましたが、最後の年に最も早く店を閉めることができ、しかも例年より利益率が高かった。副所長と戸締りをしながら、その年の12月は一度もお客さまのところにおわびに出向かなかったことを確認し合い、2人で涙しました。翌日、朝礼でその話をすると、社員からも歓声が上がり、3年半の苦労が報われました。「いい仕事をすると、オペレーションがスムーズになり、お客さまにも喜ばれ、利益もついてくる」ということを全員で体感できたのです。こうした“人の和”は、大きな励みになりますね。
仕事で出会い、築いた人間関係はかけがえのないもの
2003年、兵庫主管支店の営業企画課長に任命されましたが、主管支店長が新人時代の上司で、再び彼のもとで働くこととなりました。当時の私のミッションは、売り上げを2桁伸ばすことと店舗を増やすこと。とはいえ店舗出店の経験はありませんから、支店長からある建設会社の社長を紹介していただき、家賃の仕組みから家主との交渉術までイチから教わりました。
住宅地は荷物が多いので店舗を確保したい地域ですが、事業用地が少なく値段も高い。そこで、遊休農地などを探して、飛び込み営業に行くのです。中には「水道が通っていない」という理由で安くなっていた土地を手に入れ、契約後に井戸を掘った店舗もありました。こうして3年間で30店舗を増やし、長年課題だった地域のオペレーションはかなり改善されました。
04年には、山口の主管支店長になり、今度は主管支店長としての仕事をイチから学びました。そして06年には、埼玉主管支店に異動。関東支社の中でも規模が大きく、稼ぎ頭ですから、業績を落とすわけにはいきません。主管支店長としての重責を感じました。お客さまは、量販店や通販会社、化粧品会社など大手企業が中心。大企業の社長との折衝も初めてでしたが、大変勉強になりました。
そのころ、法人への提案力を強化するため、年2回のエリア戦略ミーティングが始まりました。そこでプレゼンテーションをするのも、主管支店長の仕事です。関東支社の予選では1~5回目まで連続で支社代表になり、2~4回目までは「ネットスーパー」をテーマに発表しました。
そうこうしているうちに、本社内に新たなソリューションモデルを推進する部署が新設されました。関東支社長に呼ばれて異動を告げられた先は、TSS(Today Shopping Service)推進室。43歳にして初めての本社異動です。TSSとは、一定のエリア内なら、深夜0時までの注文を翌日午前中から配達するサービス。てっきり、ネットスーパーの領域だろうと思っていたら、まったく違う通販業界です。1カ月間ひたすら通販業界を勉強し、作戦を立て、現場で取引している大手通販会社を紹介してもらって営業を始めました。行ってみるとどこも好感触で、通販の普及を追い風に、TSS事業は順調に業績を伸ばしていきました。
その後も、私はさまざまな仕事に携わってきました。そして実感しているのは、「答えがいっぱいあるから、仕事は面白い」ということ。試験のように答えが1つではなく、ときには「これが答えだ」と思っていたことが、後になって違う場合もある。そこが面白さなのです。
新人のころは、言われたことをやるのが精一杯で、仕事の面白さがよくわかりませんでした。ところが、「この仕事は何のためにやるのか?」を考えられるようになると、その先の工程が見えてくる。そして、先の工程が見えてくると、「もっと楽にできる方法はないか?」と、創意工夫ができるようになる。仕事には課題がつきものです。それを創意工夫で解決していくことが、楽しさでもあり、やりがいでもあると思います。
もう1つ実感しているのは、「仕事は、人と人との出会いの場である」ということ。出会いの入り口は会社の看板ですが、そのあとに、仕事プラスアルファのもう少しわかり合える間柄になれる人が増えていくことは、大きな財産です。それは、社員や同僚との出会いも同じこと。自分が異動するときに「一緒に働けて良かった」といってくれるメンバーや、長い時間が経過しても会えば一瞬で昔に戻れるような仲間がいる。時間を共有して築いた仕事仲間以上の関係は、かけがえのないものだと感じています。
新人時代
神戸の実家から通勤していた入社1年目の神戸中央営業所。写真は、「交通事故ゼロ月間」の目標を達成して、くす玉を割った時(写真の一番右が長尾氏)。セールスドライバーはほとんどが中途採用で、年齢もキャリアもさまざま。仕事だけでなく、一緒に釣りに行くなど、いろいろなことを教えてもらった。
プライベート
現在は東京に単身赴任しているが、毎年ゴールデンウィークには神戸に戻り、現場で働いていた当時の仲間40名ぐらいと一緒に、甲子園球場で野球観戦を楽しむのが恒例行事。もちろん阪神タイガースファン。いつも大和(ヤマト)選手の背番号ゼロ番のユニフォームを着て応援している(写真は2015年5月に撮影)。
取材・文/笠井貞子 撮影/刑部友康