ビジネスパーソン10年周期説。最初の10年は基礎を身につける
博多工場・倉庫課。ここが私の入社直後の配属先でした。
京都生まれ、京都育ち。大学卒業後は東京で営業に携わりたい──。その思いはかないませんでした。東京と逆方向へ。そして、同期の事務系40人のほとんどが営業配属で、工場配属は私を含め、たった数人でした。当然、不満を抱えながらの九州への赴任でした。
倉庫課では1年、現場長として、倉庫に運ばれてくる空函(あきかん)や空き瓶の管理に携わりました。空き瓶は小売店や飲食店から回収されて、冬はそれがどんどん積み上がり、夏はその山を崩して、洗浄して再利用します。作業着を着て現場に入り、ドロドロになりながら働きました。
その後の1年は庶務課に異動し、ほかの部署に属さない仕事は、それこそトイレが詰まったときの対応やドブの掃除まで、なんでもやりました。次は総務に1年、その次の1年半が資材購買と、博多工場に都合4年半、勤務したことになります。
そもそも配属に不満があったうえに、九州の営業に配属された同期が、スーツを着てさっそうと働く姿を目にすると、「なんで自分だけ…」という不満や焦りがどんどん膨らんでいきました。
そんなころ、休みを利用して京都の実家に帰り、父に「こんなはずではなかった」という話をすると、父が「せっかくメーカーに入社したんだから、モノづくりの現場を間近に見られるのは貴重なことではないか」と言うのです。それをきっかけに、自分のキャリアについて、しっかり向き合って考えるようになりました。
たどりついたのは、“ビジネスパーソン10年周期説”です。この会社で40年働くとするならば、それを10年ずつに区切って、自分のキャリアを積み重ねていこう、と。
最初の10年は“修行”です。言われたことを徹底的にやり抜き、ビジネスパーソンとしての基礎を作る期間ととらえました。
そして次の10年の半ばくらいには、課長になる可能性が高くなります。だとすれば、実務家として余人をもって替え難い得意分野を持てるようになろうと考えました。
さらに次の10年は、部長という役職が視野に入ってきます。このころには、社内の序列や価値観だけでなく、社外でも通用する能力をどれだけ身につけているかが勝負となるでしょう。
このように、自らを成長させていこうと心に決め、可能な限り実践すべく、努めてきました。腐らず、焦らず。自分の目の前の仕事に意味があるのだと納得しようとし、やるべきことに必死で取り組んだ。今振り返れば、この経験が私のキャリアの礎になっていることは間違いありません。
すべて立候補制。意欲ある人材を徹底的にバックアップ
その後の私のキャリアは、大変恵まれたものだったと思います。
博多工場の後、労働組合の専従として、6年働きました。ちょうど会社の業績が悪かったこともあり、最大にして唯一の仕事は“雇用を守る”こと。従業員の生活のレベルを上げて、働きやすい職場を作ることに、日々、力を注いでいました。
30歳前後という年齢の割には、経営に近い仕事を見られたいい経験だったと思います。
その後、広報に移って、CI(コーポレート・アイデンティティ)に携わることになります。1980年代半ば、『アサヒスーパードライ』が発売される前のことで、当社が業界でのシェアを落としていた時代です。新しいアサヒビールを作る。それがミッションでした。
この仕事をやってみないかと言われた時、それまで組合の専従だった私は会社の実務からしばらく離れていました。自信がないと断ることもできましたが、結局、引き受けることにしました。
組合の専従として雇用という経営に近い世界を見てきたこともあって、新しいアサヒビールを作っていくことで会社が再び苦境に陥ることがないようにしたいと思ったのが、その理由の一つでした。
そして、もう一つの理由は、それが“誰もやったことのない仕事”だったことです。CIは今でこそ一般的ですが、当時、私はその言葉を知らなかったし、まだまだ多くの企業で実践されているものでもありませんでした。前任者がいない仕事であれば、ちょっと頑張ればその道の第一人者になれます。“余人をもって替え難い”得意分野を身につけるチャンス。そのようにとらえたのです。
その後も、当時、アメリカから入ってきたコーポレートコミュニケーションという手法を実践すべく、広報企画課を作ってもらったり、新設した経営戦略部の初代部長になったり…と、前任者のいない仕事を経験する機会をたくさん頂きました。これが、私にとって一番恵まれていたことだと思います。荒野に放り出され、目標を達成するために必要な知識、スキルを身につけようと必死にもがくことが、人を成長させてくれるのです。
だからこそ、社員には、そうしたチャレンジの機会をたくさん与えたい。
一つの例は、私が社長に就任後、すぐに始めたグローバル・チャレンジャーズ・プログラムです。アサヒビールは、2015年には世界の食品会社のトップテンに入る、という目標を掲げています。そのためには、それを担う人材が必要です。語学とその国の文化、ビジネス習慣、市場を学び、グローバル展開を担う人材を育てるため、今年はまず10人を世界各国に派遣しました。
ほかにもさまざまな機会を社員に用意していますが、すべて“立候補制”です。荒野でチャレンジするのが楽しいと思える人もいるし、そうでない人もいる。意欲のある人を徹底的にバックアップしようとしています。
とはいえ、もともと意欲があっても、失敗を認めないような風土では、手を挙げたくても挙げられません。失敗してもバックアップする風土を作れば、みんな手を挙げるようになるのです。
ゴルフで言えば、OBラインをなしにして、「思い切って振れ」と言ってあげる。始めから「ここからここまで」と範囲を決めたら、体が固まって思うように力を発揮できません。個性を発揮するには、体を目いっぱい使って自由に仕事をさせることが重要なのです。
学生の皆さんに望むことは、常に好奇心を持って学ぼうとしてほしい、ということです。就職活動はもちろん、社会人になってからも、経験のないことが次々と目の前にやってくるはずです。そのとき、何もしないで通り過ぎるのか、それとも好奇心を持って、必要な知識やスキルを身につけようとするのか。長い社会人生活の中では、その姿勢ひとつで驚くほど差がついていきます。委縮せず、失敗を恐れずチャレンジする。それが、自らを成長させる秘訣です。
加えて言うならば、当社では、思い切って振って山の下にボールが落ちてしまったとき、自分でなんとかはい上がってくる努力をさせます(笑)。もちろん、そこにまた、成長があると信じているからなのです。
成長が実感できる人生は、本当に楽しい。そんな気持ちを、皆さんと分かち合いたいですね。
新人時代
学生時代は、時間があると「一人ぶらり旅」。行き先を決めず車で出かけていました(写真は鳥取砂丘にて)。新人時代は、博多工場・倉庫課が最初の配属。就職活動ではアサヒビールしか受けず、どこかで相性のよさを感じていました。だからこそ、退職とまでは至りませんでしたが、希望の営業職に就けず、最初は腐っていたことも事実です(笑)。自分の父親よりも年上の現場の人々をまとめる役割を入社してすぐに担い、汗まみれ、泥まみれになって働いていました。
プライベート
取材・文/入倉由理子 撮影/刑部友康 デザイン/ラナデザインアソシエイツ
※2009年取材