自社の強みは何か、必死で考え続けた新人時代
大学時代は、柔道とアルバイトに明け暮れた毎日でした。体育会柔道部に所属し、練習の傍ら、先輩に紹介された家庭教師や鋳物工場、土木現場などで働き、あまり勉強する時間はありませんでしたね(笑)。
そんななかで迎えた就職活動は、厳しいものでした。活動をしたのが1964年。ちょうど、東京オリンピックの年です。オリンピックを背景にした好景気に陰りが見え、完全な「買い手市場」でした。
アサヒビールとの縁は、大学の隣にビール工場があった、という単純なものです。初任給2万円の時代に、ビールは1杯100円以上。学生にとっては高嶺の花であり、会社説明会に参加すれば、ビールが飲めるというのが魅力的でしたね。
最初はそんな不純な動機だったものの、面接が徐々に進み、自分でも会社四季報などを使って調べていくと、「スタイニー」という商品のヒットによって業界でのシェアを上げつつあったこと、また、飲料部門では「三ツ矢サイダー」という強い商品を持っていることがわかってきました。きっとこの会社は成長するかもしれない。そんな期待が持てました。
また、ビールという商品が、まだまだ日本の社会では目新しかった時代です。ビールを販売するという仕事が、「これからの仕事」であり、カッコよさそうにも映っていましたね。
最初の配属は本社の宣伝課でした。営業配属だとばかり思っていましたから、正直、驚きました。
まだ、テレビや雑誌・新聞広告は「黎明期」というような時代です。バラエティ番組とのタイアップや広報誌による消費者とのコミュニケーションなど、先輩方の先進的な試みを見て、自分もここで頑張ってみようと思えました。当時、宣伝課のメンバーは5、6人。広告のコンセプトを設計していく議論にも新人ながら参加し、競合他社との違いは、アサヒビールならではの魅力は…と必死で考え続けました。今思えば、会社が与えてくれた大きなチャンスだったと思います。
新聞社主催の新聞広告賞を受賞するなど、宣伝課の3年間はとても充実していました。しかし、この後、営業への異動の辞令が出ます。私の試練は、ここからでした。
心の持ちようで行動が変わる。その言葉が転機に
異動後の配属は、東京都下にある営業所。このエリアには競合他社の大きな工場があって、アサヒビールは厳しい営業活動を強いられていました。また、全国的なシェアが低迷していたときでもあり、自社商品に対して自信が持てませんでした。
さらに、私にとって営業は初めて。それでも新入社員ではありませんから、研修はありません。営業の「いろは」を、まったく理解していないままのスタートでした。
そんな状況でしたから、酒屋さんに営業を仕掛けてもアサヒビールの商品を売ってくれないし、飲み屋さんも置いてくれません。自分があまりいい営業ではないことはわかっていましたが、だからといって積極的に行動を起こそうとはしなかったのです。「何をしても、どうせ買ってくれない」という諦め感があったのでしょう。
しかし、一方で「このままではダメだ」という思いもあって、大学の先輩に相談したこともありました。彼らの「若いんだから、辞めて別の会社でやり直せ」という言葉に、心を動かされたりしましたね。
そんな私を変えたのが、社内研修の講師の一言。
「心の持ちようで、行動が変わる。『売れない』と思うから売れないし、顧客に『好かれよう』と思っていないから好かれない」。
確かに、「この店の主人はなんだか好きになれないなあ」と思うと、顔は正面を向いていてもその人の後ろを見ていたり、その人がいないような時間を見計らって訪問したり。飲食店のオーナーに「アサヒビールさんはおいしくないからね」なんて言われても、反論せずに引き下がっていたり。こうした行動は、すべて私自身の「いやだなあ」「商品に自信が持てないなあ」という心の持ちようの問題なのだ、と思うようになりました。
もちろん、すぐに翌日から行動が変わっていったわけではありません。でも、自分の心持ちを変えることで、相手の心に響くようなコミュニケーションができるようになって、少しずつ、行動に変化が表れ、そして成果につながっていきました。
現在は、私の時代とは市場環境が大きく変わっています。我が社でも、ビールという主力商品だけでなく、食品、飲料と商品の領域はどんどん広がり、また、海外にもフィールドを広げています。また、業界の再編が起こり、巨大な競合他社とも戦っていかなければなりません。
しかし、今後どんなに私たちを取り巻く環境が変化しようとも、「心の持ちようで行動が変わる」ということは、これからも変わらない大切な考え方だと思います。
新人時代
プライベート
取材・文/入倉由理子 撮影/刑部友康 デザイン/ラナデザインアソシエイツ
※2009年取材