やまざき・りょう●1973年、愛知県生まれ。大阪府立大学農学部卒業(緑地計画工学専攻)。在学中にメルボルン工科大学環境デザイン学部(ランドスケープアーキテクチュア専攻)にてジョン・バージェス氏に師事。大阪府立大学大学院(地域生態工学専攻)修了後、 SEN環境計画室勤務。2005年に「studio-L」を設立。地域の課題を地域に住む人たちが解決するためのコミュニティデザインに携わる。町づくりのワークショップ、住民参加型の総合計画作り、建築やランドスケープのデザイン、市民参加型のパークマネジメントなどに関するプロジェクトを多く手がける。現在は、東北芸術工科大学教授(コミュニティデザイン学科長)、慶應義塾大学特別招聘(しょうへい)教授も務める。
デザインするのは「人と人がつながる仕組み」
-山崎さんはこれまでに「第四次島根県隠岐郡海士町総合振興計画」(島根県隠岐郡海士町)や「鹿児島県鹿児島市マルヤガーデンズ」(鹿児島県鹿児島市)など約300を超えるコミュニティデザインのプロジェクトを手がけてこられたとか。ご著書からそれぞれのプロジェクトの面白さは伝わってきたのですが、正直なところ、「コミュニティデザイナー」の仕事とは何かが、はっきりとはわからなくて…。
わかりにくいですよね(笑)。皆さんにはよく「地域の人が地域の課題を自分たちで解決するために、人と人がつながる仕組みをデザインする仕事です」とご説明しています。訪れた町や島の人たちと一緒に仕事をしているうちに「集会所を作ってほしい」「空間設計のアイデアが欲しい」と頼まれるようなこともありますが、基本的にモノは作りません。地域の総合計画をそこに住む人と行政が一緒になって作るための橋渡しをしたり、地方の新聞社が新社屋建設に当たって市民が集う場所を作りたいと立ち上げたプロジェクトで、地元の人たちと新聞社の社員、建築家などで構成するワークショップを運営したりと、地域が元気になるためのお手伝いをするのが僕たちの仕事です。
訪れた先では、ワークショップなどを通して地域の人たちと一緒に課題の解決策を見つけていきます。先行事例や、課題に関連した基本的な専門知識など皆さん自身が考えるための材料は提示しますが、あらかじめ用意した答えを提示して「こうすればいいですよ」というようなことは言いません。また、皆さんの発想が受け身にならないよう、「何が欲しいか」ではなく「何をしたいか」を聞きます。すると、回を重ねるうちに、僕が口をはさまなくても地域の人たち同士で活発に議論できるようになり、ワークショップに参加する前はつながりのなかった人たちがつながって、新たなコミュニティが生まれる。この仕事の最終的な目標はそこです。
やりたい仕事がわからないまま、設計事務所に就職
-大学ではランドスケープ(景観)デザインを学び、卒業後は設計事務所に勤務されていたんですよね。
大学の学部は農学部で、もともとは中学時代の先生から「将来性がある」と聞いたバイオテクノロジーについて学ぼうと入ったんです。ところが、僕が進んだ学科ではバイオの授業がないと発覚。「なんとなくカッコよさそう」という理由でランドスケープを専攻したのですが、勉強してみると面白くて、関連の分野を学んでいくうちに建築にも強い関心を持つようになりました。当時はとにかくデザイン性の高い建物を造ることに憧れていましたね。
転機となったのは、大学3年生の時に起きた阪神淡路大震災です。被災地で崩れ落ちた建物を前に、がれきにはさまって犠牲になった方たちに思いをはせ、建築というモノが人の命を奪うこともあるという事実にがくぜんとしました。一方で、住む家を失った人たちが公園に集まって助け合い、炊き出しをしながら励まし合っている姿を見て気持ちを救われたことから、「モノを作るよりも、デザインの力を生かして人と人のつながりをつくるような何かをしたい」と考えるようになったんです。ただ、それが何なのか具体的な職種名が思い当たらず、モヤモヤした気持ちのまま建築とランドスケープを手がける設計事務所に就職しました。そこの上司が公共建築の設計において、地域の人たちの意見を聞くワークショップを重視する人だったんです。後の僕にとってはラッキーだったと言えますが、実のところ、当初はワークショップの仕事がイヤだったんですよ。
-どうしてですか?
そのころやっていたワークショップは地元の人たちが主体的に考える場をつくるというよりは、どんな建物や空間をつくるのか、住民の合意を得ることが目的になっているところがあり、「ごっこ」っぽいと思っていました。いろいろな人の意見を聞けば聞くほど、造形が主張のないものになっていくことも残念でならなかった。でも、数年後、建築物が完成するころになると、考えが変わりました。ワークショップをやって造った建築物は、そうでない建築物に比べて参加した住民が愛着を持ってくれ、何度も訪れてくれたんです。
ワークショップの仕事も、場数を踏むにつれ、楽しくなっていきました。あらかじめ用意した案を見せて意見を聞くと、最初は「ここがダメ」「あそこがイヤ」とあら探し大会のようになりがちなのですが、「その課題を解決するにはどうすれば良いと思いますか?」と相手の主体性を引き出すような問いかけをすると、僕たちが思いつかないようなアイデアが出たりもします。また、議論が進むにつれメンバーの交流も深まり、「山崎さんのおかげで地域に知り合いができて、生活が変わった」とお礼を言われることもありました。自分が何かをすることによって、地域の人たちに笑顔が生まれるのは、やはりうれしかったですね。
主体的に考え、行動する人たちで構成されたコミュニティをつくることこそが、図書館や公園を造ること以上に、地域を元気にするのではないか。そう考えて、設計事務所時代の後期はコミュニティづくりに力を入れて取り組みました。例えば、公園の遊び場造りを依頼されたら、同時に完成した遊び場で子どもたちと一緒に遊ぶ「プレイリーダー」を養成するというように。ただ、設計事務所でコミュニティづくりばかりやるというわけにもいかず、2005年に独立。プライベートで地域リサーチのフィールドワークを一緒にやっていた仲間と「studio-L」を設立しました。
独立1年目の年収は35万円。それでも、毎日が楽しかった
-山崎さんの活動によって、今でこそ「コミュニティデザイン」という言葉を知る人も増えましたが、独立当時は事業内容の説明も難しかったのでは?
「人と人をつなぐ会社です」と言っていましたが、いかにも怪しそうですよね(笑)。建築の設計者がなぜモノを作らないんだと言われましたし、独立前から周囲には「もうかるわけがない」と忠告されていました。実際、1年目の年収は35万円。しかも、設計の図面を書く手伝いで得たもので、コミュニティデザインの仕事の収入はゼロ。とにかく実績を作らなければと最初は無報酬で活動していたからです。活動の様子は写真に撮って冊子にし、「これが僕たちの仕事です」と見せられるようにしました。そのうちに各地の自治体から関心を持ってもらえるようになって、独立3年目くらいからコミュニティデザインの仕事だけで何とかやっていけるようになりました。
独立当初は結婚したばかりでしたし、「どうやって食べていくんだ」と周囲からは心配されました。僕自身も、不安がまったくなかったわけではありません。だけど、仲間や家族とはよく「楽しかったよね」とあのころのことを振り返ります。めっちゃ貧乏だったけど、それを乗り越えるにはどうすればいいかをみんなで考えるのがすごく面白かった。何より、四六時中やりたいことをやれているという充実感がありました。
後編ではコミュニティデザインの仕事に必要な資質・スキルや、今後の活動についてお話しいただきます。
(後編 10月18日更新予定)
INFORMATION
若者向けに、コミュニティデザインの仕事についてわかりやすく書かれた『ふるさとを元気にする仕事』(筑摩書房/920円+税)。コミュニティデザインの基本知識やプロジェクトの事例が丁寧に説明されている。山崎さんの学生時代の過ごし方や、現在の仕事の進め方、ワーキングスタイルについても具体的につづられており、キャリアや働き方について考える上でのヒントもいっぱいだ。
取材・文/泉 彩子 撮影/刑部友康