久保田雅人さん(わくわくさん・俳優)の「仕事とは?」

くぼたまさと・1961年東京都生まれ。立正大学文学部史学科在学中に中学・高校の教員免許(社会科)を取得。大学4年生の時に声優の三ツ矢雄二氏と田中真弓氏が設立した劇団「プロジェクト・レビュー」の1期生となり、卒業後は役者の道に進む。89年4月からNHK教育テレビ(Eテレ)の工作番組『つくってあそぼ』に「わくわくさん」として出演。同番組は学校利用率80パーセント、平均視聴率10パーセントの人気番組に成長し、2013年3月まで23年間続いた。テレビ出演の一方、年300日ほど全国各地の幼稚園や保育園を訪れて工作教室を行い、累計ステージは5000回を超える。番組終了後も共演のキャラクター「ゴロリ」とともに「わくわくさん」としてイベント活動を続け、全国各地を飛び回っている。

できなくて、どやされて、悔しくて。芝居も工作もそれで覚えた

もともとは教員志望だったんです。ところが、教育実習で高校生を教えた時に、なんとなくくじけてしまったんですね。「俺、教員はできないかもしれない」と。なぜかというと、まず、授業をうまくやれない。さらに、生徒が言うことを聞かない。今にして思えば、思い通りに物事が進まないなんて当たり前のことなんですけどね。すごく当たり前のことが苦痛に思えちゃったんです。

そんな時に立ち読みした雑誌で、アニメ『タッチ』の主人公・上杉達也役で知られる三ツ矢雄二さんとアニメ『ワンピース』のルフィ役を務める田中真弓さんが劇団を立ち上げ、その1期生を募集していることを知りましてね。演技の勉強もしたことがないのに、「こういう世界も面白そうだな」とふらふらっと応募し、入団してしまいました。

大学卒業後はアルバイトをしながら舞台俳優を目指しましたが、20代前半はひどかったですよ。とにかく売れなかった。最初に出演した映画は死体役でした。たまにテレビドラマに出られることになっても、エキストラがほとんど。喫茶店のお客さん役で、同じスパゲティを4時間もかけて食べさせられたり…。それでも、エンドロールのクレジットが楽しみで、目を皿のようにして自分の名前を見つけたものです。

劇団では大道具・小道具など裏方もやりましたし、自分のできることがあれば何でもやろうと思っていました。とにかく現場にいて、演技を体で覚えたい。ただそれだけでしたが、見ていてくれる人はいるものですね。劇団に入って5年目くらいだったかな。当時、NHK教育テレビが工作番組『できるかな』の後続番組のキャラクターとして、工作が得意でしゃべりの面白い出演者を探していまして。それを同局の子ども番組で活躍していた田中真弓さんが聞いて私を推薦してくれ、工作番組『つくってあそぼ』に主役の「わくわくさん」として出演が決まったんです。

モノを作るのは好きでしたが、しゃべりながら作るとなると、これがもう難しくて。最初は工作は下手だわ、セリフは棒読みだわ、ひどいものでした。スタッフも新番組を軌道に乗せようと真剣ですから、どやされたことも一度や二度ではありません。情けなくて、悔しくて。このままではいけないと、局の方に紹介してもらって幼稚園などにうかがい、番組出演と並行して工作教室や工作ショーに出演するようになりました。生身の子どもたちの前に出て勉強しようと思ったんです。

子どもたちの反応はストレート。工作をわかりやすく、かつ飽きさせないよう見せるにはどうすればいいか、ずいぶん学びました。ただ、この「武者修行」を本気でやるようになったのは番組が始まって4年目くらいからです。「わくわくさん」を続けるうちに、矜持(きょうじ)、プライドみたいなものが生まれてきたんでしょうね。この役に賭けてみたいという思いが強くなって、事務所から独立し、声優などほかの仕事をすべてやめました。当時、妻は長女を妊娠中でしたから、よく賛成してくれたと思います。

番組はいつ終わるかわかりませんから、そこからは必死です。イベントにもどんどん出演して、ほぼ毎日子どもたちの前で工作を見せ続けました。「うまくなった」と言われるようになったのは、それからです。娘が生まれ、親になった影響も大きかったと思いますが、やはり腰をすえてひとつの仕事をやってみるというのは大事なんでしょうね。あの時「わくわくさん」一本でいこうと決めず、あれもこれもといろいろな仕事に手を出していたら、すべてが中途半端になって、23年間も番組が続くなんてことはなかったかもしれないです。

50歳を超えた今だから言いますが、若い諸君! 人間、腹さえくくればたいがいのことは何とかなります。だから、「安易に仕事をやめるな」と言いたいです。仕事はたくさんの選択肢から選ぶにこしたことはないけど、ひとつ選んだら、とことんやる。で、納得いくまでやってダメだったら、次の選択肢は自然と出てくると思うんです。私だって舞台俳優を目指していたころは、「わくわくさん」として人生を歩むなんて想像もしていなかったですしね。

もうひとつ、仕事に限らず、人生を豊かにするために覚えていてほしいことがあります。それはたくさんの天才と巡り合うこと。私の場合、何といってもラッキーだったのは造形作家のヒダオサム先生と出会えたことです。番組が終了したのでお話をしますと、『つくってあそぼ』の工作を考えてくださったのはヒダ先生でした。ヒダ先生の素晴らしいアイデアも、私と相棒のキャラクター「ゴロリ」がふがいないと、子どもたちにきちんと伝わらない。先生に顔向けできない仕事はしたくないという気持ちも、自分を成長させてくれました。じゃあ、天才に巡り合うにはどうすればいいか。それは教えられません(笑)。自分で動いていろいろな人に会い、話をしてみる。自分から突っ込んでいくしかないんですよ。

ph_shigoto_vol100_01

生涯一「わくわくさん」。子どもたちにモノ作りの喜びを伝え続けたい

私がどんなに売れなくても役者をやめなかったのは、実のところ、親への意地もありました。両親、特に父は私が役者になることに大反対でした。当然ですよね。ずっと教師になると言っていた息子が、突然、芸の道に入りたいと言い出したわけですから。勘当され、「わくわくさん」としてテレビに出演するようになってからも、父は一度も『つくってあそぼ』を見ませんでした。その父が、今から数年前に亡くなる間際のこと。自室の枕元に『つくってあそぼ』の本が置かれていました。父は読んでいたそうです。やっと認めてもらえたのかなと万感の思いでした。

番組は2013年3月で終了しましたが、今も「ゴロリ」と一緒に全国各地を回って工作ショーに出演しているので、感慨にふける間もありません。「ゴロリ」(声・中村秀利氏、操演・古市次靖氏)とは長い付き合いですが、親密になりすぎてなあなあの関係にならないよう心がけてきました。お互い真剣勝負ですから、ステージの上ではすごいですよ。アドリブだらけですし、どちらがセンターを取るか、食うか食われるかの世界ですから、本当におそろしいです(笑)。

『つくってあそぼ』の最終回の台本は「バイバイ」というセリフで締めくくられていましたが、私と「ゴロリ」は「バイバイ」を言いませんでした。番組が終了しても、「わくわくさん」と「ゴロリ」は終わらないからです。私は生涯「わくわくさん」という人生を全うするつもりです。「役者・久保田雅人」として、いろいろな役に挑戦してみたいという気持ちもあります。でも、私が何をやっても、「わくわくさん」にしか見えないでしょう。かつて渥美清さんが「渥美清が寅さんに食われちゃった」と言ったそうですが、それと同じです。私の場合は自分から食われちゃった節もありますけどね。

それがよかったのか、悪かったのかは死ぬまでわかりません。ただ、生涯を賭けようと思える役に出会えたのは、役者として幸せなこと。それに、娘たちに胸を張って言える仕事をしているというのは、人としてこれ以上ないことです。だから、私はやっぱり生涯一「わくわくさん」ですね。人生を賭けて、「わくわくさん」として子どもたちに自分の手でモノを作る大切さ、喜びを伝え続けていきたいです。

ph_shigoto_vol100_02

INFORMATION

「わくわくさん」こと久保田雅人氏の公式ホームページ「くぼたまさと・どっとこむ」 (http://www.kubota-masato.com)。久保田氏がイラストを描いた塗り絵や、工作の作り方の紹介など子どもたちが楽しめる「こどもたちのいりぐち」のほかに「おとなのいりぐち」があり、自身で更新する日記が人気。全国のイベントでの裏話や日常の出来事が味のある文章で綴(つづ)られており、素顔の久保田氏の仕事への思いも垣間見られる。

ph_shigoto_vol100_03

取材・文/泉彩子 撮影/刑部友康 

撮影協力/SCRAMBLE Cafe & Bar (スクランブルカフェバー)

就活をはじめる以前に、本当はいろんな不安や悩みがありますよね。
「面倒くさい、自信がない、就職したくない。」
大丈夫。みんなが最初からうまく動き出せているわけではありません。

ここでは、タテマエではなくホンネを語ります。
マジメ系じゃないけどみんなが気になる就活ネタ。
聞きたくても聞けない、ホントは知りたいのに誰も教えてくれないこと。
なかなか就活を始める気になれないモヤモヤの正体。
そんなテーマを取り上げて、ぶっちゃけて一緒に考えていきましょう。

みなさんが少しでも明るく一歩を踏み出す気持ちになれることが、
私たちの願いです。