みうらゆういちろう・1932年、青森県生まれ。56年、北海道大学獣医学部卒業後、同大学の助手として1年間勤務。64年イタリア・キロメーターランセに日本人として初めて参加、時速172.084キロという当時の世界新記録樹立。66年富士山直滑降。70年エベレスト・サウスコル8000メートル世界最高地点スキー滑降(ギネス認定)を成し遂げ、その記録映画 『THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST』 はアカデミー賞を受賞。85年世界七大陸最高峰のスキー滑降を完全達成。2003年次男・豪太とともにエベレスト登頂、当時の世界最高年齢登頂記録(70歳7ヵ月)樹立。08年に75歳で2度目、13年に80歳7カ月で3度目のエベレスト登頂〔世界最高年齢登頂記録更新〕を果たす。冒険家、スキーヤーとしてだけでなく教育者としても活躍。1992年の開校時からクラーク記念国際高等学校(通信制高校)の校長を務めている。
あきらめなければ、目標を達成するための方法はいく通りもある
「ムリだ」「やめた方がいい」。80歳でエベレストに登った時、多くの人からそう言われました。エベレストの山頂の気圧は地上の3分の1。低酸素になるため、エベレスト山頂での人体は実年齢よりも70歳ほど年をとった状態になります。80歳なら約150歳です。そんな高齢者がエベレストに登ること自体心配されましたし、登頂の3年半前にはスキー場で転倒して骨盤・大腿骨を骨折。遠征出発2カ月前には持病の不整脈が悪化して心臓手術もしました。
十分なリハビリの時間もなく、体はフラフラ。周囲が心配するのも無理はありません。でも、何か方法が見つかるはずだと信じ、それまで予定していたルートやスケジュールをご破算にして考えてみました。その時にふと思い出したのが、「年寄り半日仕事」という言葉です。年を取れば、若いころと同じようには動けません。それなのに、前回成功したからと同じ方法をとろうとすれば、無理がたたって失敗の可能性が大きくなります。年寄りは年寄りなりに自分のペースで目標に近づけばいいと思いついたんです。
そこで、エベレスト・ベースキャンプへのトレッキングで、1日に進む距離をこれまでの半分にすることにしました。朝から夕方まで登るのではなく、昼まで登ったら、次の朝まで休む。それを繰り返そうと。進む距離が半分になれば、登頂までに時間がかかり、体への負担は同じなのではと皆さんは思うかもしれませんね。でも、そもそもヒマラヤのような標高の高い山を登るときは、一気に頂上まで登ることはできません。一度標高の高い場所に登って体を慣らし、標高の低い場所で体を休めてまた登るということを繰り返して登ります。1日かけて登れば進む距離は長くなりますが、高度が一気に上がって体が疲労し、回復に時間がかかる。無理をして一日中登り続けても、登頂までにかかる日数はさほど変わらないのではと踏んだのです。
エベレスト登山では朝から夕方まで登るのが定石ですし、僕にとっても新しい試み。成功する保証はありませんでした。それに、いざ出発という段階でも空港を歩くだけで息切れがしましてね。ようやく山歩きを始めても、1500メートルくらいの高さで気を失いそうになるという調子で、75歳で登頂した時には1日でたどり着いた地点に3日かかる。そこを僕よりも年寄りのおじいちゃん、おばあちゃんがどんどん追い越していくんです。
目も当てられない状況でしたが、過去の登山の経験から「こんなことは、しょっちゅうある。あきらめなければ、大丈夫」と楽観的でした。ただし、「無理だけは禁物」と、体力が回復してきても昼まで登って午後はのんびり過ごして休むというサイクルを死守。少しずつ高度に順応できたことが功を奏したのでしょう。2週間ほどそのサイクルを続けたところ、ベースキャンプ到着時にはかつてないほど元気で、その後のアタックで登頂を達成することができました。
物事が思い通りにいかなかったり、失敗すると、人は苦しみます。その時に焦って、「ああ、ダメだ」と引き返してしまえば、それまでです。でも、一進一退を繰り返しながらも動けば、少しでも前進できます。その時に前に進む方法は1つだけと思い込まないこと。あきらめなければ、目標を達成するための方法はいく通りもありますよ。
ただし、目標はひとりで達成することはできません。80歳でエベレスト登頂を果たせたのも30人を超える遠征隊メンバーに加え、さまざまな人の協力があったからです。スポンサーにも恵まれました。多くの人に応援してもらうには、時代が必要としているものを自分の仕事の中でしっかりと表現できることが大事だと思います。例えば、今は高齢化社会ですから、70歳からの3回のエベレスト登頂では、歳をとってもあきらめなければ新たな可能性が拓(ひら)けるということを表現したかった。目標を達成できたことはもちろん、自分が表現したいことに共感してもらえたことが本当にうれしかったです。
「日本一」への道を閉ざされるも、「世界一にはなれる」と発奮した
大学時代は獣医学を学び、卒業後は母校で助手として勤務しましたが、1年で辞めました。スキーの日本代表としてオリンピックに出たいという子どものころからの夢に懸けたからです。ところが、青森県の代表枠を巡ってスキー連盟の方針に異議を唱えたことからアマチュア選手の資格を奪われ、オリンピックどころか、国内の大会にも出場できなくなってしまったんです。
オリンピック代表の道は閉ざされ、大学に戻ることもできない。夢をあきらめようとは思いませんでしたが、足がかりもなく、先の見えない日々が数年続きました。そんな時に、アメリカで開催された第1回世界プロスキー選手権大会(1961年)を報じた新聞記事を読み、「コレだ」と。世界プロスキー選手権大会は日本のスキー連盟から与えられた資格がなくても出場できるし、プロの大会はスタートしたばかりだから、参入チャンスもある。「日本一にはなれなくても、世界一にはなれる」と発奮。すぐに世界プロスキー協会に申請書を送ったところ、アジア選手として初めてエントリーを認められたんです。
資金をかき集めて翌年のプロスキー選手権大会に参加。世界の強豪選手たちと競い、なんとか8位に食い込みました。でも、世界一にはまだ遠い。次に目をつけたのがイタリアのキロメーターランセ。直滑降でスピードを競う競技で、過去に日本人の出場者はいませんでした。出場にあたっては、ただトレーニングをするだけでは自分に勝ち目はないと考えました。欧米選手との体格差に壁を感じていたからです。そこで、科学の力を利用しようと思い立ち、防衛庁航空研究所にかけあって風洞実験もして空気抵抗の少ないウェアを開発。時速172.084キロメートルの世界新記録(当時)を達成しました。
その後も、エベレストからのパラシュート直滑降、世界七大陸最高峰のスキー滑降、世界最高齢のエベレスト登頂と常に新しいことに挑戦してきました。よく「なぜ命を懸けて冒険をするのですか?」と問われますが、好奇心があるからです。記録の樹立を目指すというよりは、誰もやったことのない、新しいアイデアを形にしていくことが面白くてそのときどきの自分のベストを尽くしてきました。
それは「冒険」に限りません。僕は20代前半で結婚して妻子がいましたから、30代前半まで山での荷物運びやスキースクールのインストラクター、スポーツ用品会社の営業などの仕事で食いつなぎました。生活の糧にと始めた仕事ですが、それぞれやりがいがありましたよ。スポーツ用品会社では、ほかの人がやっていなかった飛び込み営業で神田の小売店に行き、店主や店員さんと意気投合してたくさん仕入れてもらったりしましてね。営業成績はトップクラスでした。
どこに飛び込んでも、自分の与えられた仕事に夢中になって、ベストを尽くす。マニュアルのようなものがあったとしても、それを超えるものがあるんじゃないかと想像し、やってみる。そういう姿勢で仕事をした方が退屈しないし、マンネリに陥りません。仕事というのは自分のオリジナルのものが見つかれば、意欲がまったく変わってきますよ。
INFORMATION
三浦さんの近著『やめる勇気、やり遂げる心』(PHP/1200円+税)。仕事観や人間関係の構築、日常を前向きに過ごすためのヒントなど幅広い読者にとって身近なテーマが、過酷な現場で命の危険を乗り越えてきた三浦さんならではの言葉でつづられている。
取材・文/泉 彩子 撮影/刑部友康