野村 克也さん(野球評論家)の「仕事とは?」|前編

のむらかつや・1935年京都府生まれ。京都府立峰山高校卒業。1954年にテスト生として南海ホークスに入団し、3年目の1956年からレギュラーに定着する。現役27年間にわたり球界を代表する捕手として活躍。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王などその強打で数々の記録を打ち立てる。また、70年の南海でのプレイングマネージャー就任以降、のべ4球団で監督を歴任。ヤクルトスワローズでは「ID野球」で黄金期を築き、東北楽天ゴールデンイーグルスでは球団初のクライマックスシリーズ出場を果たすなど輝かしい功績を残した。現在は野球解説者としても活躍。
野村克也オフィシャルサイト http://nomura-katsuya.com/

入団テストを突破し、プロ野球の世界へ。夢と現実は違った

-プロ野球選手としてのキャリアのスタートは南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)。当時、パ・リーグの名門球団でした。入団はもともと希望されていたのですか?

いやいや、実は、子どものころからの巨人ファンだったんですよ。「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治選手に憧れて、部屋にはプロマイドをいっぱい貼っていました。でも、私のいた京都府立峰山高校野球部は府大会で2回戦に進むのがやっとの弱小チーム。巨人はおろか、12球団のどこからもスカウトなんて来やしません。プロ野球選手になるには、入団テストを受ける道しかありませんでした。

ドラフトとは異なり、入団テストならどこでも好きな球団を選べます。テスト生の特権を生かして「いざ巨人へ」と考えましたが、巨人には私より1年先に藤尾茂さんというキャッチャーが入団し、注目されていました。キャッチャーのポジションはひとつだけ。私にチャンスが巡ってくるはずがありません。これはまともに勝負をしても勝ち目がないぞと考え、20代の捕手がいる球団を候補から外すことにしました。それで、残ったのが南海と広島。ちょうどそんな時に新聞で南海の入団テストの広告を見つけたんです。すぐに野球部の顧問の先生に相談したら、「お前なら、ひょっとしてひょっとするぞ。行ってこい、行ってこい」と背中を押してくれましてね。汽車賃がないことを打ち明けると、「それくらい俺が出してやるよ」とまで言ってくれて、大阪球場での入団テストを受けることができました。テストの日時は忘れもしない、11月23日午前9時からでした。

-応募者は何名くらいだったんですか?

300人くらい来ていました。人数にも驚きましたが、顔見知りも何人かいて、強豪校の選手ばかり。圧倒されました。テストは打撃、50メートル走、遠投の3種目。50メートル走以外はたいした結果を出せず、受かるとは夢にも思いませんでした。ところが、まさかの合格。意気揚々と入団しましたが、夢と現実は違いました。初打席は入団して半年たってからでしたが、試合にはめったに出場できず、ひたすらブルペンで投手の球を受けるだけの日々。何かがおかしいと感じてキャプテンに相談したところ、自分がブルペンキャッチャーとして採用されただけだったことを知りました。思い返せば、合点がいくことばかり。入団テストに監督は来ていなかったし、契約金はゼロ。同期入団の7人のうちキャッチャーが4人もいて、全員が田舎出身であることも不思議に思っていました。田舎の子は純真で真面目だから、舞台裏の仕事も一生懸命やると球団が考えたのでしょう。ショックでした。「俺はブルペンで球を受けるために入団したんじゃない。田舎に帰ろう」と思いました。

入団後たった1年で解雇通告。目の前が真っ暗になった

-でも、球団をおやめにはなりませんでしたね。

母の顔が思い浮かんだんです。母は「田舎者が華やかな世界に入っても、失敗して帰ってくるだけ。地道に会社員になりなさい」と私のプロ入りに猛反対でした。その母をなんとか説得して南海に入団したのに、1年もしないうちにやめてしまっては田舎に帰りたくても帰れない。もう少し踏ん張ろうと気持ちを切り替えた矢先、球団から「2年目の契約はしない」と突然の解雇通告がありました。目の前が真っ暗になりましたが、引き下がるわけにはいきません。何度も頭を下げて契約を延長してもらい、それからは必死でした。練習や試合が終わって夕方になると、みんな夜の街に繰り出すのですが、私はひたすら素振り。すると、「この世界は才能。素質だよ。バットなんて振ってもどうにもならない。行こう、行こう」と先輩たちに誘惑されるんですよ。でも、私には着ていく服もありませんでしたし、首の皮一枚でつながっている身の上。遊びに行く気にはとてもなれませんでした。24時間を有効に使って練習をし、何とかして監督やコーチの目に留まらないと、後がない。いずれ解雇になる日が来たとしても、後悔だけはしないよう、頑張れるだけ頑張ろうという思いがありました。

幸か不幸か、世の中に「努力する人」は意外と少ない

-昼間の練習でクタクタになった後、毎日バットを400〜500回は振っていたそうですね。

先の見えない中、ひとつだけね、励みがあったんですよ。ある日、どうした風の吹き回しか、2軍の監督が野手を集めて「全員、手の平を見せてみろ」とまめの検査をしたんです。「なんだお前、女の子みたいな手をして」とみんなが練習不足を叱られるなか、私は連日の素振りでまめだらけ。「おお、お前、いい豆を作ってるな。おい、みんな、野村の手を見ろ。これがプロの手だ」と監督に言われてうれしくて。ますます素振りに励みました。

素振りもただバットを振り続けるだけではつまらないので、頭の中でピッチャーの投球を想像しながらやるんです。あと、バットを振ると必ず振幅音が返ってくるんですが、いいスイングができたときはバットの1点に力が集中するから、振幅音が「ブンッ!」って短いんです。「ブゥーン」と長いときは力が分散している。「ブンッ!」っていう音が気持ちよくてね。もう一度聞きたいと、呼吸を使ってバットの1点で全部の力が一瞬に爆発するようにとイメージを描きながら振ったりしていました。そうやってコツコツ練習するうちにたまに打席に立った時に結果を出せるようになり、少しずつはいあがっていきました。振り返って思うのは、幸か不幸か、世の中に「努力する人」というのは意外と少ないんですよ。だからこそ、努力というのはするものだと思います。

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後編では逆境を乗り越えて監督として手腕を発揮できた理由や、野球界への辛口発言の背景に迫ります。

→次回へ続く

(後編 8月31日更新予定)

INFORMATION

「野球賭博(とばく)事件」「清原和博元野球選手の薬物使用事件」などプロ野球界で起きた不祥事の数々や、大リーグへの人材流出による日本のプロ野球界の空洞化の原因は「球界が人間教育の大切さを見失ったことにある」と野村さんは言う。著書『俺の苦言を聞け!』(悟空出版/定価:900円+税)では鋭い視点で球界の現状の課題を挙げ、渾身(こんしん)の「苦言」を放って解決への道筋を示している。

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取材・文/泉 彩子 撮影/刑部友康

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