こまつみわ・1984年、長野県生まれ。幼少期から画家を志す。2004年女子美術短期大学卒業後、同校版画研究室の研究生として制作を続け、在学中から女子美術大学優秀作品賞(05年)など数々の賞を受賞。09年、阿久悠氏のトリビュートアルバム『Bad Friends』のCDジャケット挿絵制作をきっかけにプロの銅版画家として活動を開始。死生観などをテーマにした繊細なタッチの作品が注目を集める。その後、油彩も始め、13年、出雲大社に絵画「新・風土記」を奉納。現在は着物や有田焼とのコラボレーションなど表現の幅を広げ、海外にも進出。15年には有田焼の狛(こま)犬「天地の守護獣」が高い評価を受け、大英博物館に永久所蔵され、日本館に展示された。
オフィシャルサイト http://miwa-komatsu.jp
画家として生きていける。幼いころからそう思い込んでいた
-物心ついたころから絵を描くのがお好きだったそうですね。
絵を習ったことはないのですが、暇さえあれば、チラシの裏に落書きをしているような子でした。自然豊かな環境で育ち、家では犬やウサギ、インコなど動物をたくさん飼っていまして。学校にはあまりなじめず、家で動物を描く時間が、唯一の自分を出せるひととき。幼いころから、画家になっている自分のイメージが映像として頭の中にあって、自分は画家として生きていけると思い込んでいました。だから、女子美術短期大学(女子美)に進学後、就職活動の時期になっても自分には関係のないことだと思っていたんです。ところが、研究室の先生から「自分に自信があるのはいいことだけれど、いろいろな経験をした方が絵の肥やしにもなる。就職活動もとにかく一度やってみなさい」と言われ、「なるほど」と思いましてね。その通りにしてみたんです。
-結果はどうでしたか?
テレビ局の制作部やCM制作会社、デザイン事務所など気になる仕事に片っ端から応募しましたが、すべて不合格でした。書類選考さえ通らないんです。自分では真剣にやっていたつもりでしたが、本気度の低さが文字から伝わっていたんだと思います。1社だけ合格し、「面接でほとんど会話もなかったのに、変だな」と辞退したら、大正解。後で調べたら、詐欺まがいの商法で悪名の高い会社でした(笑)。散々な結果に、周りもあきらめたんでしょうね。その後は誰も「就職しなさい」とは言わなくなりました。
自分を理解してくれる存在との出会いが、社会とつながるきっかけに
-美大卒業後は?
女子美では銅版画にのめり込み、短大卒業後も研究生として2年間制作を続けました。のちに代表作と呼ばれるようになった「四十九日」を描いたのはこのころです。研究室を卒業してからはアルバイトをしながら、家賃5万円のアパートで絵を描き続けました。そのうちに百貨店のアート部門でアルバイトとして働くようになり、機会を見つけてはお客さまとしていらっしゃるアート関係の方々に「四十九日」を見てもらいましたが、評価はひどいものでした。そんな中で、ひとりだけ私の作品に関心を持ち、理解をしてくれたのが、現在一緒に仕事をしているアートプロデューサーの高橋紀成さん。阿久悠さんのトリビュートアルバムのCDジャケットの絵を描いてみないかと声をかけていただきましてね。「締め切りは3日後。採用されるかどうかはわからない」という条件でしたが、「ここが勝負どき」と寝る間を惜しんで描いてたくさん提出しました。そうしたら、私の絵が選ばれ、画家として初めての仕事になりました。
-「ここが勝負どき」となぜ思われたのですか?
ようやく出会った自分の作品の理解者をがっかりさせるわけにはいかないという気持ちでした。せっかく依頼してくれたのだから、ここで応えないと私の画家人生は危機に陥ると思いました。画家はひとりでは生きていけません。誰からも作品を評価されない日々を送っていた私にとって、高橋さんという理解者は社会と自分をつなげてくれる大きな存在でした。私はそんなに人間関係が得意ではないのですが、高橋さんと仕事を始めたころに言われたのが、「とにかく人と会い、社会を見なさい」と。それまでの自分が出会ったことのないさまざまな世界の人たちとご一緒する場に呼ばれ、末席でお話を聞かせていただくということを1年くらい続けました。
そうやってたくさんの人と出会って学んだのは、プロとアマチュアの違いは作品と人とのかかわり方にあるということです。絵というのは自己満足だけで描いていたら、人はマスターベーションを見せられているような不快な気持ちになるけれど、人の心に入っていくものを描ければ、自分も人も満足できる。簡単なことではありませんが、私はプロでありたい。そのためには、あきらめないこと。そして、自分の作品が理解されないことを人のせいにしないこと。自分を律して生きていかなければいけないなと考えるようになりました。
27歳でニューヨークを訪問。自分に足りないものの多さを知った
-20代後半からはペイント画の大作を描かれることが多くなりましたね。きっかけは?
いずれは世界を舞台に活動したいという思いがあり、そのために現場を見ておこうと27歳の時にニューヨークを訪れたんです。オークションやアートギャラリー、作家のアトリエなどを見せてもらって刺激を受け、世界で勝負するために自分に足りないものがあまりに多いことに驚愕(きょうがく)しました。そのひとつが、小さい作品しか描いてこなかったこと。海外で高い評価を受けている作品は大きな絵が多いんです。それらの作品を見て、自分もスケールの大きい絵を描いてみたいと思うようになったのが、ペイント画を始めたきっかけです。それまでの私は銅版画をずっとやってきて白と黒の表現にこだわり、ペイント画を描こうという気持ちにはなれなかったんですね。でも、技法の特性としてペイント画は銅版画よりも大作を描きやすいですし、直前にアフリカ・ウガンダを旅して色の大切さも感じていたので、自然な流れでペイント画に挑戦するようになりました。
ニューヨークでは、キュレーターさんたちについて世界的なオークションハウス「クリスティーズ」にも行きました。その日はちょうど村上隆さんによる東日本大震災被災者支援のチャリティーオークションが開催されていて、私も見ようと思ってはいたんです。「ひとりの画家として、自分の絵の糧にしよう」と粋がって。ところが、居合わせたアメリカ人のおじさんから村上隆さんの「追っかけ」と間違われて「村上さん、あそこにいるよ。サインもらっておいで」と言われましてね。その時に「違います。私は画家です」と言えない自分が悔しくてたまりませんでした。自分が村上さんのような立場ではないことは当然わかっていたものの、それどころかここでは観客に過ぎないという現実を突きつけられ、魂がしぼんでいくような気がしたんです。だけど、落ち込んでいる場合ではないと思いました。ここで挫折を味わったからこそ「このままではダメだ」と気づくことができたんだし、悔しいなら、自分が「クリスティーズ」という舞台に立てる人間になるしかない。「絶対にここに立つぞ」と心に決めました。だから、2015年に香港の「クリスティーズ」で自分の作品が落札されたことの意味は私にとって本当に大きかったです。
後編では海外での活動の制作への影響や、仕事に感じる喜びについてお話しいただきます。
(後編 10月26日更新予定)
INFORMATION
故郷を大切にし、生まれ育った長野県にも活動拠点を持つ小松さん。2016年9月に開催された「G7長野県・軽井沢交通大臣会合」ではアンバサダーを務め、会合の開催記念作品「灯し続け、歩き続け」を制作した。同作は2017年1月9日まで軽井沢ニューアートミュージアムで開催中の小松さんの個展で一般公開されている。
■G7長野県・軽井沢交通大臣会合開催記念特別展 小松美羽 −灯し続け、歩き続け−
期間 : 2016年9月26日〜2017年1月9日
会場 : 前期/KARUIZAWA NEW ART MUSEUM 2F 展示室1 後期/KARUIZAWA NEW ART MUSEUM 1F Gallery4
詳細は http://knam.jp/
取材・文/泉 彩子 撮影/刑部友康