三菱日立パワーシステムズ株式会社 取締役社長 西澤隆人【企業TOPが語る 仕事とは?】

1947年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院 機械工学専攻修了後、73年に三菱重工業株式会社入社。2007年、執行役員。11年、常務執行役員。12年、エンジニアリング本部長。13年、エネルギー・環境ドメイン副ドメイン長兼火力発電システム事業部長。14年2月より、三菱重工と日立製作所の火力発電システム部門が一体化した新会社、三菱日立パワーシステムズの取締役社長に就任。

初めての長期海外出張がシベリア。これが自分の原点に

人生の大きな転機になったのは、大学2年の春休み、当時はまだ珍しかった海外放浪に出かけたことです。ナホトカ(旧ソビエト連邦)まで船で2日。そこからシベリア鉄道でモスクワまで1週間。ウクライナホテルに2泊して、それからオーストリアのウィーンに鉄道で向かいました。

学生ですから貧乏旅行です。ユーレイルパスを買いましてね。これを持っていると、ファーストクラス車両に乗れるんです。ホテルに泊まるお金を節約するために、夜行列車で移動したりして。デンマーク、ドイツ、フランス。2月、3月の2カ月間をヨーロッパで過ごしました。

とにかく日本とまるで違う。こんな世界があるんだ、と驚いて。いろんな人がいて、いろんな言葉があって、いろんな場所があって、面白いなと思いました。現地で友達になった人の家に泊めてもらったこともありました。

一人で旅をしていると、辛いこともあります。友達のありがたみ、両親のありがたみなども、しみじみ感じましてね。それこそ帰国してしばらくは、母がびっくりするくらいやさしくなりました。もっとも、2週間ほどでまた元に戻ってしまったんですが(笑)。

私の父は建築家で、子どものころは父が造った建物を、よく見に行きました。だから、いずれモノづくりをしてみたい、という気持ちを持っていたんですね。ところが、海外に行ったことで、海外で大きな建築物を造ってみたい、と思うようになったんです。

そんな時に、三菱重工が化学プラントなどを造る組織を統合して、新しいエンジニアリングセンターを造ると聞いて、興味を持ちました。大学の専攻は流体力学ですから、もともと造船に進むという選択肢もありえましたからね。

入社して、機器の設計、配管の設計からプロジェクトマネジメントに携わるようになりました。そして数年して出合ったのが、ソ連(ソビエト連邦)での大きなプロジェクトだったんです。一度は受注したんですが、ソ連との打ち合わせの翌日に当時の田中角栄総理が電撃的に日中平和友好条約を結びました。当時、ソ連と中国は仲が悪かったために、受注は取り消しになりましてね。

ところが、技術評価をしていたスタッフが三菱重工の設計が良かった、と言ってくれて、一部のプラントを受注することになったんです。それで、ロシア(ソ連の構成国の一つだったロシア連邦共和国)2番目の油田のガスリフティングのプラントをシベリアで造ることになりました。私はもともと配管設計をしていたんですが、この時は全体のプロジェクトマネジメントに手を挙げたんです。自分でやってみたい、と。

実は大学時代の旅行でシベリアに行った時、ここに来ることはもうないだろうと思っていました。ところが、会社に入って最初の長期海外出張がシベリアになったんです。ここから1年半にわたって駐在しました。20代後半のころです。

冬にはマイナス55度にもなる世界。生活するのも大変でしたが、政治的にも難しい国。しかも当時は通信網もなく、モスクワにようやくつながる電話も、ソ連に不都合な話をしようとしたりしたらプツリと切れてしまう。盗聴されていたんですね。

本当に日本に戻れるのか、不安も募る中で、難しいプロジェクトを推し進めなければいけない。現地のスタッフに思うように動いてもらえなくて、大げんかをするのも日常的なことでした。でも、面白かったのは、そうやって大げんかをするソ連の官僚が、金曜日の4時になるとピタリと仕事をやめて、ウォッカとグラスを取り出して、私にもなみなみとついでくれたことです。そして「一週間ご苦労さん」と乾杯するんです。月曜日からまた、大げんかが始まるんですが、この金曜日の切り替えは、なんとも心地良いものでした。

ちょうど同年代のエンジニアたちもいて、何かトラブルが起きたりしても日本に頼ることはできませんから、一緒になって対応策を考えたり。これは楽しかった。とにかく苦しかったけれど、この1年半は、後の私の原点になりました。なんとかなるんだ、やればきっとできるんだ、ということを知りましたね。

そして帰国して、次に赴任したのが、イラクでした。最高気温55度の灼熱の国です。マイナス55度からですから、温度差110度。われながら、すごい挑戦だと思いました(笑)。

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台湾新幹線の日本連合コンソーシアムのリーダーに

その後、マレーシアに家族で赴任したり、サウジアラビアのプラントにも携わりました。よく例えるんですが、プロジェクトというのは、ヨットに似ているんです。常に条件が変わる。同じ海でも、天候によって波の立ち方がまるで変わる。プロジェクトもそうです。同じお客さまでも、同じ地域でも、プロジェクトマネージャーが変わるだけで違う。

時代が変化すると、お客さまの状況も変わります。お客さまの業績がいいとき、厳しいときでも変わる。需給状況が逼迫(ひっぱく)しているのか、そうでないのかによっても変わる。でも、だからこそ、面白いわけです。もちろん大変さもあるわけですが。

たくさんのプロジェクトに携わりましたが、何より思い出深いものといえば、台湾新幹線です。日本の新幹線のシステムが台湾に輸出されたことをご存じの人も多いかもしれません。日本の大手企業7社による連合プロジェクトでしたが、そのリーダーとなったのが、三菱重工でした。そして私は、この日本のコーソーシアム(企業連合)のリーダーを務めました。

サウジアラビアのポリエチレンプラントの建設工事が終わりかかっていた時に、突然、本社に戻れ、と言われて、何をやるのかと聞いてみると、新幹線だという。これには驚きました。それまで私は化学と環境のプラントしか、設計も建設も試運転もしたことがなかったからです。

しかも、この台湾新幹線のプロジェクトというのは、複雑な案件でしてね。事業権を獲得したのは、ヨーロッパの鉄道会社と組んだ台湾の企業連合。ところが、その後、ドイツの高速鉄道で事故が起きたり、台湾で大地震が起きたりして、安全性に不安が広がった。そこで、地震国であり、さらにずっと無事故を続けていた日本の新幹線に関心が移り、最終的に日本の企業連合が逆転受注したのです。

しかし、すでに受注時点では、台湾の企業連合はヨーロッパ人のスタッフを多数雇っていて、スペックもヨーロッパ基準でした。日本の新幹線なのに、ヨーロッパの仕様でやらなければならなかったのです。技術承認から何から、ゼロからやらないといけない。交渉は難航して、なかなかプロジェクトが動きませんでした。

スタートから約3年間は、「このプロジェクトは終わらないかもしれない」と思っていました。会社人生で初めてのことでした。そのくらい、何もかもうまくいきませんでした。しかし、少しずつ少しずつ好転していって、ようやく7年をかけて無事に終えることができたんですね。

プロジェクト予算は1兆7000億円。金額を見るとあらためて大変なプロジェクトだったんだと思うと同時に、日本の技術力の高さを実感するプロジェクトでもありました。安全検証の仕組みも間近に見ましたが、本当に驚かされた。日本の底力を見ました。

逃げ出したくなったのでは、と問われることもありました。でも、逃げたら誰がやるのか、と。それ以来、私はこんなふうに思うことにしているんです。神様は試練に耐えうる人にのみ、試練を与えるのだ、と。苦しいことが起きたら、神様に選ばれたんだと思えばいい。失敗したらしょうがないんです。やれることをやればいい。

そして結局、プロジェクトを成功させるかどうかは、チームビルディングと絶対にあきらめない気持ちにかかっているんです。チームワークが壊れたら絶対にうまくいかない。あきらめたらそこで終わり。

若い人からは、こんなふうに問われることもあります。どうすれば出世ができますか、偉くなれますか、と。私の答えはシンプルです。偉くなりたいと思うな、と。偉くなりたいと思うと、それは態度に出るんです。絶対に周囲にわかる。むしろ、偉くなりたいなら、そう思わないことです。

そして、後輩や部下を一生懸命、育てること。後輩や部下が育たないと、自分が損をするんですから。逆に、後輩や部下が育てば、自分がラクになる。今、上司や先輩からもらったものを返したくてももういない。だから下に返すしかない。それこそが、お礼になるんです。

若い人には、無限の可能性があると思っています。高い目標と夢に向かって挑戦すること。あきらめないこと。できると思うことからすべてが始まること。精神の若さは年齢ではないんです。若くても挑戦心がなければ老いていく。逆に年を経ても、挑戦心があれば、若い精神のままでいられるんです。

新人時代

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初めて長期出張することになった西シベリアでの写真。当時の南極探検隊と同じ装備を着用しました。新人時代の私は、自分がおかしいと思ったことは、何でも言う新入社員でした。なので相当、使いにくかったんじゃないかな(笑)。でも、若い人の思いはとても大事なんです。だから今も、積極的に声を聞くようにしています。若い人に10人ほど集まってもらって、タウンミーティング(対話集会)を続けています。何度も話を聞いたり、そこから改善をしたりしていますよ。

プライベート

若いころはスキーやヨットを楽しんでいたんですが、最近は庭いじりが楽しい。柑橘類が好きで、ライムやキンカン、ゆずなどを作ったりしています。2013年は初めて、せとかの実がなりました。あとは、録画しておいたボクシング中継を見ることでしょうか。学生時代から、ボクシングは大好きで、よく見ているんです。

取材・文/上阪徹 撮影/刑部友康

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