なつまゆみ・1962年生まれ。80年渡英以降、南米、北米、欧州、アジア、ミクロネシア諸国を訪れ、オールジャンルのダンスを学ぶ。93年には日本人で初めてソロダンサーとしてニューヨークのアポロ・シアターに出演し、絶賛を浴びる。98年、冬季長野オリンピック閉会式で老若男女、数万人が一度に踊るための振り付けを考案・指揮。NHK紅白歌合戦では17年以上ステージングを担当している。吉本印天然素材、ジャニーズ、モーニング娘。、宝塚歌劇団、AKB48、マッスルミュージカルなど、団体から個人にいたるまで、手がけたアーティストは300組にのぼる。日本における振付師(コリオグラファー)の代表者的存在である。
努力は、才能やセンスに勝ることがあるという学び
ダンスと音楽に囲まれた環境で育ったんです。家族で夕食を終えゆっくりおしゃべりをしていると、父がおもむろに母に手を差し伸べ、ダンスに誘うという光景が日常でした(笑)。二人で気持ちよさそうにジルバ(社交ダンスの一種)を踊り、私と兄はそんな両親を半ばあきれながら眺めているのが、私にとって「普通の家族の姿」。そんな両親の影響もあって、音楽に合わせて体を動かすことが本能的に好きだったんでしょうね。幼少時代には、アメリカのダンス番組『ソウル・トレイン』に夢中になり、毎日のように踊っていました。
ただ、最初からダンスの世界を目指していたわけではありません。憧れはありましたが、高校卒業後にイギリスに語学留学し、そこで出会ったダンサーのスタイルの良さに衝撃を受けて「ダンスはかっこいい人がやるもの」とあきらめていました。本格的にダンスを学んだのは、帰国後に貿易商社に入って2年目のころ。9階のオフィスから見えた目の前のビルがたまたまダンススタジオだったんです。「ここなら、私も踊れるかもしれない」と心動かされ、レッスンに通うようになったのが、ダンスとの正式な「出合い」でした。当時のオフィスフロアが9階じゃなければ、私の人生は180度違っていたでしょうね。
ダンスを仕事にするようになったきっかけは、当時体調を崩していたダンススタジオの先生に「私の代わりに教えに行ってほしい」と頼まれたこと。その言葉を「私には才能とセンスがあるのだ!」と勘違いして受け取り、ミュージカル劇団への入団を決意。最初に受けた劇団のオーディションに受かったことで、調子に乗ってしまいました(笑)。ダンスインストラクターとして、知り合いづてにレッスンの代行をお願いされることも多くなり、「好きなダンスを教えてお金をもらえるならば」と会社を退職。生徒たちが自主的にスタジオを借りてくれて、教えてほしいと頼まれるようにもなりました。
仕事をしていく上で、大きな転機は3つありました。まず、レッスンを受け持つと、私のことをみんなが「先生」と呼んでくれるようになったこと。当たり前だと思うかもしれませんが、私はみんなの望みに従ってただ大好きなことを、みんなが楽しいと言ってくれるから教えているだけでした。「先生」と言ってもらうことで認めてもらえた、という気持ちと同時に、ダンスの魅力を伝える側としての責任を感じるようになりましたね。
そして次は、劇団で出会ったある女の子の存在です。後輩として入ってきた彼女は、驚くほどダンスが下手な子でした。「こんなにできないのに、劇団員になれるんだなぁ」などと、今思えばものすごく失礼なことを思いながら、私はその傍らで練習をしていたのですが、3カ月たったころ、彼女が見違えるほど上手になっていたのです。このときに感じた、「努力はセンスに勝ることがある」という衝撃は、その後、モーニング娘。やAKB48など指導する際も大切に胸に留めていました。彼女に出会えたことで、自分もよりいっそう努力しようと気が引き締まり、今では、私のゆるぎない信念になっています。
さらに、ミュージカル劇団のあとに入ったお笑い劇団で、「踊れるのなら振りも創れるでしょう」という座長からの指示で、劇中のダンスの振り付けを担当。チラシに「振付師:夏まゆみ」と掲載してもらった、初めての仕事になりました。お笑い芸人や役者は、そもそもダンスをしたことがありません。ですから、「ワン、ツー、スリー、フォー」とカウントをかけたり、音に合わせて「右、左、ターン!」などと指示をしても、まったく動けないんですね。そこで私が行ったのは、すべての振りに言葉をつけて教えることでした。例えば、手を前に伸ばす振りは「あなたに~」、両手を胸の前でクロスにする振りは「いやよ!」などと、誰でもわかるような言葉やセリフを付けて音楽に合わせて動いてもらうことで、みんな少しずつ、振り付け通りに踊れるようになっていったのです。お笑い芸人や役者が舞台演出上ダンスを踊る場合、「本業ではないから」とダンスへの意欲がなく、振り付けに苦労することもありました。そんなときにどんな言葉をかければやる気を引き出せるのか。とことんまで考え、言葉の重要性を知ったことが、のちにAKB48などダンスの「未経験者」を指導するにあたって大きく生きることになりました。
人に惑わされず自分で動く力が必要
これまでに300を超えるアーティストの「コリオグラフィ」(振り付け)を担当してきましたが、振り付けはあくまでも私の仕事の一部。自分の職業を紹介するとき、私は「ダンスプロデューサー」という肩書を名乗ります。「ダンスプロデューサー」の仕事とは、ダンスをプロデュースし、ダンスを通じて人材育成をはかることです。モーニング娘。やAKB48などのプロジェクトでも、ダイヤモンドの原石であるスターの卵たちをオーディションで見つけ、プロフェッショナルに育成することが私の仕事。たまたま、自分にとって最も自由に使える武器が「ダンス」だったというだけで、やっていることは、学校の先生や企業の人材育成担当者と同じく、「人を育てる」ということなんです。
例えばかつて、モーニング娘。から後藤真希が卒業すると決まったとき、センターの安倍なつみを含め、ほかのメンバーが一気に落胆したことがありました。メンバーの卒業が続いた時期でもあり、新曲の振り付けリハーサルの時間になっても、まったくテンションが上がらない。そうなると、まず私がやることは、メンバーの心を揺さぶり、モチベーションを再び上げることです。「モーニング娘。の顔は、安倍、あなたでしょう。『後藤が辞めて、モーニング娘。は出てこなくなった』と言われるようになったら、それほど悔しくて恥ずかしいことはない。あなたがモーニング娘。を引っ張ってきたんだから」すると、だんだん安倍の表情が変わってくるんです。
対話は、いつも1対1を心がけ、みんなに話すときも、一人ひとりに話しているときと同じエネルギーをぶつけます。メンバーがバラバラだと感じるときは、“責任感があり、人に頼ることなく背中を見せられる”、グループのキーパーソンに話をすることも私の仕事。ダンスに取り組む姿勢を見ていれば、周りに惑わされず、自分の目で見て感じ、自己をしっかり持っているメンバーは誰かすぐにわかります。
モーニング娘。の仕事をしていたときは、ユニットが3つも4つも立ち上がり、1日に5〜6曲の振りを考えたこともあれば、スタジオで渡された曲を1時間の休憩を挟んだあとに振り付けしたこともありました。作る側も大変ですが、その振りをどんどん入れられ覚える側も本当に大変だったと思います。私が、モーニング娘。やAKB48など、これまで出会ってきた10代、20代のアイドルたちを、心から尊敬しているのは、「その場で与えられたものを受け入れ、自分のものにしていくんだ」という意識と自覚が、本当に高いからです。12、13歳で「歌手になりたい」「女優になりたい」といった夢は、不明確なものかもしれないけれど、置かれた環境で「私はこうなりたいから、今課されていることに全力で取り組んでいく」という思いの強さには目を見張るものがあります。逆にその強さがないと、10代前半から常に周りから見られ評価される仕事は、簡単に続けられないのです。
30年間ダンス指導を行ってきて思うことは、「人は誰でも能力があり、人は誰でも幸せになれる」ということです。能力に気づいていないから発揮できないだけで、いつ発揮するかは人によってそれぞれだし、ゴールはさまざま。「どんなに頑張っても苦しいから辞めてしまいたい」と思うときは、「今は、幸せを最大限に感じる『ゴール』への準備期間だ」と思って、ぜひ、少しだけ踏ん張ってほしいなと思います。
INFORMATION
200万人以上にダンスを指導してきた夏さんだからこそ語れる、自分を強く持ち、自分の良さを最大限に引き出す方法が書かれた一冊。前田敦子(元AKB48)を合格させ、その後大きく成長を遂げた理由など、指導の具体例に基づいたエピソードがたくさん。どんな仕事をしている人にも通じる、成功する人が持っているものや、挑戦することの大切さ、学ぶ姿勢など、働き方のヒントになる要素が散りばめられている。
『エースと呼ばれる人は何をしているのか』(サンマーク出版/税抜き1400円)
取材・文/田中瑠子 撮影/鈴木慶子