こうけんてつ・1974年大阪府生まれ。料理研究家の母・李映林に約3年間師事し、2006年に独立。韓国料理はもちろん、和食、中華、エスニックなど幅広いジャンルの家庭料理を得意とし、旬の素材を生かした簡単でヘルシーなメニューを提案。一男一女の父でもあり、自身の経験をもとに、親子の食育、男性の家事・育児参加、食を通してのコミュニケーションを広げる活動に力を入れている。テレビや雑誌、講演会など多方面で活躍し、『情報満載ライブショー モーニングバード』(テレビ朝日)にレギュラー出演中。レポーターを務める食紀行番組『コウケンテツが行く アジア旅ごはん』(NHK BS1)も好評。
テニスのプロを目指したが、病気で断念。20代はバイトに明け暮れた
15歳で始めたテニスに夢中になり、当時はテニスで食べていくことしか考えていませんでした。スポーツが得意で、たいていのものはすぐできたのに、テニスだけは歯が立たず、難しいからこそ極めたいと思ったんです。そこで、神戸にある名門テニスクラブに通い始めましたが、入れてもらえたのは小学生のクラス。強くなるには生活すべてをプロのテニス選手と同じにしなければ間に合わないと考え、高校も中退しました。
もちろん周囲は猛反対でした。15歳からテニスのプロを目指すなんて無謀なことですし、僕は在日韓国人2世です。「学歴のない在日韓国人が日本で就職するのは、大変なこと。とにかく大学には進学してほしい」というのが両親の願い。中学時代にお世話になった先生まで来てくださって思いとどまるよう説得されました。でも、僕の気持ちは変わりませんでした。練習に打ち込み、規則正しい生活をして、「高校が嫌いでやめるのではなく、本気でテニスのプロになりたい」ということを伝え続け、最後にはみんなが応援してくれるようになりました。
高校をやめてからは、まさにテニス一色の生活でした。ところが、ジュニアチームを卒業する時にコーチから、「お前の努力と熱意が人の10倍、20倍あるのは認めるが、プロのテニス選手になるのはあきらめろ」と言われました。それでもあきらめきれなくて、コーチとして指導をしながらプロを目指す道に進もうとしたのですが、無理な練習がたたり、19歳の時に重度のヘルニアになってしまって。2年間ほど寝たきりで、テニスはやめざるを得なくなってしまいました。
テニスを断念したら大学に行くと両親に約束していたので、大検(現・高等学校卒業程度認定試験)も取得していたのですが、闘病中に自分を支えてくれた家族に恩返ししたいという思いもあり、大学には行かず、働くことに。とにかく生活費を稼がなければと、体が回復してからはアルバイトに明け暮れました。早朝勤務や深夜勤務と日中の仕事を掛け持ちして、多いときは1日20時間労働。正社員としてはなかなか就職できず、イタリアンレストランやパン屋さん、コンビニエンスストアの販売スタッフ、警備員など数えきれないほどの仕事を転々としました。
そんな日々が20代後半まで続いたのですが、少し家計が落ち着いてきて、母が「かねてからの夢をかなえたい」と料理研究家になったんですね。母の仕事が忙しくなり、僕も休みの日に手伝いをするようになったんです。料理雑誌の撮影現場に立ち会ううちに、東京の出版社から大阪の母のスタジオまで来てくださる編集者の方たちとお話をするようになって。そのひとりに「男の料理をテーマに連載をやってみませんか」と声をかけていただいたことが、料理研究家への道につながりました。
正直なところ、最初に連載の仕事を頂いた時に、「料理研究家として食べていこう」という強い意識があったわけではありません。でも、いざ始めてみると、仕事が面白くてたまりませんでした。それまで生活のためだけに無機質に働く時期が長かったので、打ち合わせで人と話すだけでも楽しくて。
それに、料理研究家の仕事にはテニスに通じるものがあると感じました。料理研究家として自分の料理を雑誌に発表するには、相手が求めているものが何かを探り、そこに自分にしかできないエッセンスを加えてレシピを提案する必要があります。テニスでも最初の5分くらいは軽くボールを打ち合って、相手の特徴を分析し、戦略を立てて攻める。相手のことを知りながら、求められている以上のものを返し、それが雑誌に掲載されて形として残るというのは、僕にとってテニス以上にエキサイティングでした。
テニスを始めたころ、少しでも早く強くなるには食生活もプロと同じようにコントロールしなければと栄養学を学び、毎日自分でお弁当を作っていたことも期せずして役立ちました。テニスでの挫折は、今でこそ過去の経験として皆さんにお話しできますが、当時は悔しかったし、周囲の視線も気になって恥ずかしくてたまりませんでした。でも、死にもの狂いでテニスに打ち込んだあの時期がなかったら、僕は料理研究家としてやっていくこともできなかったでしょう。皆さんもこの先、希望する仕事に就けないということもあるかもしれません。それでも、投げやりな気持ちにならず、目の前のことに全力を尽くすことが大事だと思います。一生懸命やったことは回り回って、より大きなものになって返ってきます。
プライドは持たない方が、軽やかに物事に挑戦できる
料理研究家の面白いところは、家庭料理の力を伝えられるところ。一流のレストランで技術を追求して作った料理も素晴らしいけれど、身近な人たちの顔を思い浮かべながら作られた家庭料理には技術だけで説明できない魅力があります。友達の家に遊びに行ったときに夕飯時になり、「ご飯ができたから、食べて行きなさい」と出してくれた何てことのないカレーが無性においしかったりしますよね。それは、やはり気持ちがこもっているからだと思うんです。
「手軽で簡単なメニューを考えてください」とお願いされることもよくあり、料理研究家として活動を始めたころは悩みました。忙しい毎日の中で料理を続けるには手軽で簡単なメニューも便利だけど、僕が子どものころに「本当においしい」と思った家庭料理とはどこかが違うなと。その時に「おいしい家庭料理とは何なんだろう」と自分の料理の味のルーツを掘り下げるようになり、食の歴史、各地に昔から残る郷土料理の良さといったものへの関心も深まって、どんなレシピを考える際もそこは大切にするようになりました。
そのあたりから僕にしかできない独自性みたいなものが生まれ、皆さんからも「いい料理を作るね」と言っていただけるようになった気がします。「ガッツリ男子ごはん」「時短おかず」といった当初よく依頼を頂いていたテーマだけでなく、日本や韓国だけでなく、世界の家庭料理のレシピを紹介する本を出したり、テレビの食紀行番組のレポーター、食や育児の講演会のお話を頂いたりと仕事が広がっていきました。
僕が料理研究家になるとは学生時代は想像もしていませんでした。テニスのように強烈な思いを持って志したわけではないのに、声をかけてもらってありがたくお受けしているうちに、何とかこの世界で食べていけるようになって…。料理の仕事に関しては、何のプランもなかったのに不思議なものですね。皆さんに手を差し伸べられて、拾い上げてもらった感じなんです。
今日ももっともらしくお話ししましたが、結構後付けなんですよ(笑)。でも、仕事って、そのくらい肩の力を抜いて臨んだ方がうまくいくこともある。料理研究家というと、職人気質というか、料理に対する強いプライドがあると想像されがちですが、僕はプライドというのはない方がいいと思うんです。僕の唯一の長所は、どんな相手の話もちゃんと聞くようにしていること。アシスタントにもよく「もっとちゃんとしてくれないと困ります」と説教されるのですが、人に言われて気づけることって多いんですよ。
だから、僕は家庭でも仕事でもプライドは持たないことにしています。すると、何でも軽やかにできるんです。気負うところがなくて、緊張もしなくなる。テニスのプロを目指していたころは、とてもそうはいかなかったですよ。周りがまったく見えず、コーチからアドバイスをされても「僕はこういうプレーがしたいので、放っておいてください」と主張するばかりでした。当時は一生懸命でしたが、かたくな過ぎると、周りもどう手を差し伸べていいのかわからない。いつまでも新しいことに挑戦したいから、どんな現場にもひょいと行ける軽やかさは持っておきたいなと思いますね。
INFORMATION
『コウ ケンテツが選ぶ 食のハングル 単語&フレーズ集』(NHK出版/税抜き1000円)では、本場の韓国料理を楽しむためのハングル単語とフレーズを学べる。150品以上の韓国料理が写真つきで掲載されているほか、「食堂で食べるとき」「市場で食材を買うとき」といったシチュエーション別にフレーズを紹介。コウさんオリジナルの韓国料理レシピつき。
取材・文/泉彩子 撮影/刑部友康