弘兼憲史さん(漫画家)の「仕事とは?」

ひろかねけんし・1947年山口県生まれ。早稲田大学法学部卒業。70年、松下電器産業(現パナソニック)に入社し、本社販売助成部に勤務。退職後、74年に『風薫る』でデビューを果たし、『島耕作』シリーズ、『ハロー張りネズミ』、『加治隆介の議』など多くの作品を発表。おもな受賞歴は第30回小学館漫画賞『人間交差点』(1980年連載開始)、第15回講談社漫画賞『課長 島耕作』(1983年連載開始)、文化庁メディア芸術祭優秀賞・日本漫画家協会大賞『黄昏流星群』(1995年連載開始)など。2007年、紫綬褒章を受章。現在は『会長 島耕作』(『モーニング』)、『学生 島耕作』(『イブニング』)、『黄昏流星群』(『ビッグコミックオリジナル』)などを連載中。また、エッセイの執筆も多数。文化放送『ドコモ団塊クラブ』、ニッポン放送『黄昏のオヤジ』でラジオのパーソナリティーを務めるなど多方面で活躍している。

大手電機メーカーに3年勤務。会社は学びの宝庫だった

手塚治虫さんの影響で漫画家に憧れましたが、自分がプロになれるとは思わず、大学卒業後は松下電器産業(現パナソニック)に入りました。得意の絵を生かして宣伝の仕事をしたいと考えたんです。入社後、僕が配属を希望していたのは本社の販売助成部。会社全体の宣伝を担当する部署で、配属される新入社員は毎年1人か2人。僕の同期は理系を除いても約450人でしたから、狭き門だったのですが、どうしても行きたいと思っていました。

当時、松下電器では6カ月の新人研修後に配属が決まることになっていました。そこで、猛アピールですよ(笑)。座学の研修中は毎日レポートの提出があったので、その日学んだことに宣伝の仕事への思いを織り交ぜてびっしり書きました。販売店での実習もありましてね。おもな仕事は商品の配送やアンテナ工事でしたが、販売スタッフの仕事もするんです。そのときに印刷のプライスカードよりも手描きの方が印象に残るだろうなと考えて自分で描いたり、イベントを自分で企画してのぼりを作ったり、思いついたことをどんどんやっていました。その様子を見回りに来た営業部の人が人事に伝えてくれたんでしょうね。希望通り販売助成部に配属され、全国の販売店に配布する販促物の企画・制作やショールームのショップデザインなどを担当しました。

松下電器での仕事はすごく充実していました。その仕事を3年で辞め、漫画家を目指したのは、一度きりの人生、思いっきり夢を追いかけてみるのもいいじゃないかと思ったからです。当時一緒に仕事をしていたデザイナーさんやイラストレーターさんに漫画家志望が多く、影響を受けたところもありましたね。会社員時代は漫画を描く時間はなく、学生時代もひとコマ漫画しか描いたことがなかったのに、振り返れば、ずいぶん大胆なことをしたものです。

ただ、僕には現実的なところがあって、「5年頑張って作品が雑誌に載らなければ、デザイン会社をやろう」と決めていました。会社員時代にずっとデザイン会社の人たちと仕事をしていたので、経営のノウハウもわかっていたし、デザイン会社をやるためにはどんな力が必要なのかがわかっていました。実際に松下電器を辞めてデザイン会社を設立した人たちも周りにいたので、やれる自信はあった。性格にもよると思いますが、僕の場合はそうやってリスクヘッジをしていたからこそ、思い切って夢を追いかけることができたんです。

それに、結果的にではありますが、僕は漫画家になるための準備を会社にさせてもらったと感謝しています。デザインの知識を身につけられたのもそうですし、社会人としての基本的なマナーや人との接し方もしかり。会社員を主人公にした『島耕作』シリーズも松下電器での3年間がなければ描けなかったでしょう。

つまり、将来どんな道を歩むにしても、会社は学びの宝庫です。ただし、会社に養ってもらうという姿勢では多くは学べません。独立志向はなくても、今はどんな会社も先行きが見えない時代。いざというときに自立して生きていける術を、いかに会社から学ぶかを考えてほしい。例えば、大変な仕事を与えられたなら、嘆くのではなく、どうすればクリアできるのかをゲーム感覚で考えてみる。苦手な上司がいたら、「あのオッサンはどこがダメなんだろう」と観察して自分はそういう態度を取らないようにする。お給料をもらって学んでいると考えれば、どんな仕事もポジティブにとらえられるようになりますよ。

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漫画家になった時、締め切りだけは絶対に守ると決めた

頭ひとつ抜けるために新人時代にやるべきことは、失敗をおそれずに物事に挑戦すること。中堅になると、失敗をしづらい立場になりますから、今のうちです。もうひとつ大事なのが、言われたことはどんなに難しいことでもやり遂げること。僕は26歳で漫画家としてデビューした時、締め切りだけは絶対に守ると決めて、どんなに疲れているときも頑張りました。新人のうちから締め切りを延ばしているようでは仕事が来なくなるぞと考えていたからです。

デビュー後しばらくは読み切りの作品を描いていて、まずは作品を雑誌に載せて多くの人に読んでもらわなければと思っていました。編集者と意見が対立したときに不本意ながら従ったこともあります。逆らうと、掲載してもらえませんからね(笑)。実績を積みさえすれば、こっちのものだと思っていました。

ようやく自分の意見が言えるようになったころに連載を始めたのが『人間交差点』です。社会の底辺で苦しんでいる人々を描いた作品で、原作は矢島正雄さん。編集者と僕と矢島さんの3人で意見が対立し、お互い譲らないという状況になったこともあります。でも、最終的に締め切り間際に描くのは僕なので、全部自分の思う通りに描いて出しました。面白くなくて人気が落ちれば、仕事が来なくなってもいいという覚悟のうえでしたが、うれしいことに、連載は10年続きました。

漫画はひとりで世に出しているわけではないので、編集者の意見に救われることもあります。でも、作品に対して最終的にすべての責任を取るのは作家です。だから、どうしても譲れないことだけは妥協せず、自分の描きたいものを描くという姿勢を貫いてきました。

読者にウケそうだからとマーケティングをして作品のテーマを選んだこともありません。前例がなかったり、「売れない」とされるテーマだったために、「うちでは無理かな」と連載の提案を断られた作品もありますよ。中高年の恋愛を描いた『黄昏流星群』や政治家を描いた『加治隆介の議』がそうですが、最終的にはどちらの作品も別の出版社で連載が決まり、多くの人に読んでいただくことができました。『島耕作』にしても、連載開始当初は「サラリーマン漫画」といえば『釣りバカ日誌』のようにコミカルなものが多く、会社員の人生をリアルに描いたものはなかったように思います。人の描かないテーマをあえて選んだわけではなく、自分のやりたいことをやってきただけですが、勝算がないからという理由であきらめなかったからこそ、オリジナルのものを描くことができました。

これから社会に出る人たちに言いたいのは、「火中の栗を拾え」ということです。今は「リスクはできるだけ避けたい」という考えの人が多いですよね。でも、本当にそれでいいのかと僕は思います。舗装されたまっすぐな道と曲がりくねった山道なら、後者を選んだ方がいい。ゴールにたどり着くまで時間はかかるし、蛇や熊が出てきたり、大変なこともあるかもしれないけれど、まっすぐな道を行くより成長できる。何より、変化がある方が人生は楽しいです。

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INFORMATION

「努力だけでも、才能だけでも生き残れない」と言われる漫画家の世界で、40年にわたって第一線で活躍してきた弘兼さんがその極意を語った『夢は9割叶わない』(ダイヤモンド社/税抜き1400円)。「夢はかなうと信じて頑張るのも大事なことですが、実際にはほとんどの夢がかないません。それでも人は生きていかなければいけない。夢がかなわなかったときにどうするのか。冷静に考えてリスクヘッジをしたうえで夢を追いかけた方が思いっきり挑戦できるし、夢もかないやすくなると思います」と弘兼氏。

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取材・文/泉彩子 撮影/鈴木慶子

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