賀川 浩

かがわひろし・1924年兵庫県生まれ。小学生のころに蹴球(サッカー)を始め、神戸一中(現・神戸高校)では2度の全国優勝を経験。神戸商業大学予科(のちに神戸経済大学に改称、現・神戸大学)に入学した翌年、太平洋戦争で出兵。帰国後、大学OBなどが中心となったクラブで天皇杯準優勝。大学中退後、52年に産経新聞社大阪支局にスポーツ記者として入社し、3年後にサンケイスポーツ発刊に伴い異動。74年にサンケイスポーツ大阪編集局長。84年から大阪サンスポ企画の社長を務め90年に定年退職しフリーに。現役最年長のサッカージャーナリストとして活躍中。ワールドカップ10回、ヨーロッパ選手権5回、南米選手権1回など世界中を取材で飛び回る。74年から、サッカーマガジンでワールドカップ開催に合わせ『ワールドカップの旅』を連載。著書に『90歳の昔話ではない。 古今東西サッカークロニクル』ほか。2010年、日本サッカーの発展に尽力した功労者を称える「日本サッカー殿堂」に選ばれ、15年に日本人初となるFIFA会長賞を受賞。

賀川 浩公式ブログ「賀川浩の片言隻句」 http://kagawa.footballjapan.jp/

プレイヤー、ジャーナリストとして80年以上もサッカーと共に歩む

2014年6月にブラジルで開催されたワールドカップで、10度目のワールドカップ取材になりました。1974年の西ドイツ大会から現地取材で見続けてきましたが、2010年は体調不良で断念。今大会も体調面に不安があり難しいかと思っていたのですが、セルジオ越後氏(サッカー解説者・元プロサッカー選手)から故郷・ブラジルでの開催なので、ぜひ見てほしいと。89歳6カ月での渡航は不安もありましたが、行ってみるとジャーナリストとしての魂が騒ぎ、現地で試合を見て記事を書きました。まさか、こんなに長く取材を続けられると思いもせず、今思えば、サッカージャーナリストは僕の天命なのかもしれません。

 

そもそも、僕がサッカーに出合ったのは、80年以上も前のこと。最初はプレイヤーとして、その後、サッカージャーナリストとして、人生の大半をサッカーと共に歩んできました。 そんな昔に日本でサッカーをしていたのか、と驚かれる方もいるかもしれませんね。蹴球(しゅうきゅう)と呼んでいたサッカーの歴史は、実は戦前にさかのぼるんです。大正6(1917)年には、日本と中国、フィリピンで現在の東アジア大会のような公式戦が開催。大正7(1918)年には高校生対象の日本フットボール全国大会開催、大正10(1921)年には大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)が設立されています。

 

私の住んでいた神戸は、特にサッカー熱の高いエリアで、サッカーチームがいくつかありました。夏は野球、冬はサッカーというのが当たり前のような感じで。2歳上の兄の影響でサッカーを始め、革で作られた古めかしいボールを蹴っていました。ポジションはセンターフォワードです。

 

中学(※1)、大学でもサッカーを続けていましたが、太平洋戦争で人生が一変しました。19歳で陸軍に入隊、視力にすぐれ運動神経も良いということで特別操縦見習士官になり、戦闘機のパイロットになったんです。昭和20(1945)年3月には朝鮮半島に渡り、特攻隊に入隊。「自分の一生は20歳で終わる」と覚悟を決めた矢先、終戦。「戦争は終わったから帰っていい」と言われても、そう簡単に心の整理はつきません。勉強する気もサッカーをする気にもなれず大学を中退し、ふらふらとしていました。
(※1)当時の中学は現在の高校にあたる

 

51年の暮れだったかな、京都の新聞社がヨーロッパのサッカーチームについて記事を書ける人を探していると知人づたいに頼まれ、書くことは嫌いでなかったから引き受けたんです。その記事が産経新聞社の目にとまり、28歳からサッカージャーナリストとしての人生を進むことになりました。

 

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日本のサッカーの歴史と共に歩みながら、ジャーナリストとして伝え続ける

産経新聞社では運動部に配属になり、サッカーだけでなくプロ野球、高校野球、オリンピックなどスポーツ全般を取材。55年にサンケイスポーツの記者になってからも、野球、競馬、競輪、大リーグや野球のワールドシリーズなど、なんでもやりましたよ。それでも頭の中に常にあったのは「サッカーの面白さをいかにして伝えるか」でした。

 

59年には、マレーシアで開催されたアジアユース大会に帯同。日本スポーツ史上初の高校選抜チームが海外に遠征するということで、僕も報道兼マネージャーとして初めて海外取材へ行きました。そのときに、ただ試合の批評を書いても誰にも興味を持ってもらえないだろうと考え、「クアラルンプールは2つの川が交わる場所という意味で…」というように、サッカーだけでなく旅行気分を感じてもらえるような紀行文風のレポートにしたんです。これが評判を集め、のちに書くワールドカップ取材記のベースにもなりました。

 

68年のメキシコオリンピックでは、釜本邦茂氏(現・日本サッカー協会顧問)が7得点で得点王に輝き、日本は銅メダルを獲得。メキシコワールドカップは、是が非でも自分の目で見たいと思いました。ですが、その年はサンスポ創刊10周年という節目でもあり、1カ月も日本を離れるわけにいかず断念。この時の悔しさが、その後のワールドカップへの思いにつながっているかもしれません。

 

初めてワールドカップ取材の機会がやってきたのは、74年の西ドイツワールドカップです。日本でもサッカーへの興味やワールドカップへの関心が高まっていたので、現地で取材した記事を載せるべきだし、今度こそ現地で取材したいと準備しました。この時、私の役職は編集局次長。簡単には会社が送りだしてくれないだろうから、サッカー関連のスポンサーから広告出稿をとりつけました。会社は広告料が入る代わりに広告スペースを用意せざるを得ない状況に。広告の上段部分には記事が必要なので、僕が自費出張で取材して書きます、と会社を説得しました。

 

西ドイツワールドカップでは、約1カ月間かけて見られる限りの試合を見ました。あらためて自分の目で見て、そこには自分が書きたいと思うサッカーがあったんです。帰国後、サッカー専門誌でも「ワールドカップの旅」という紀行文風の記事を執筆。それを読んでくださった方から「まるで現地にいるような臨場感と興奮が伝わってきました」と手紙を頂いたことも。“伝える”ことが、私にできるサッカーへの貢献。その思いを強くしました。

 

ワールドカップだけでなく、オリンピック、ヨーロッパ選手権、プロリーグ、国内外の選手や監督など、見たい試合を見に行き、話を聞きたい選手に会い、サッカーに深くかかわり続けました。その間、日本では93年にプロサッカーのJリーグが誕生し、サッカー熱が加速。それでも、人口に占めるプレイヤーの割合は日本で3.8パーセントに対し、ドイツ19.9パーセント、イングランド8.2パーセントと強豪国との差は歴然。これから日本が強くなるには、ファンが増え、サッカー人口が増えることが必要です。そのために私にできることは、自分の目で見てきた日本のサッカー史を振り返り、ファンに伝えること。また、一つひとつの試合を細かく分析し、戦術面、技術面など細かな報道を心がけたいと思っています。

 

それぞれの国にそれぞれの歴史がある。日本でも、明治時代にサッカーが伝わり、大正、昭和、そして平成へと続いています。そして、これからも歴史を刻んでいくことで、ようやく根付いていくんです。サッカーは世界で愛されるスポーツ。その面白さは簡単には伝わらないでしょうが、できる限り会場に足を運び、試合を見て、書き続けることで、日本のサッカー史に貢献できればと思っています。

 

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INFORMATION

2014年に出版された『90歳の昔話ではない。古今東西サッカークロニクル』(東邦出版/税抜き1300円)には、1930年の極東大会から2011年の女子ワールドカップ優勝までの日本サッカー史、釜本邦茂氏や岡田武史氏、ペレ氏など賀川さんの心に残るサッカー人、そして1974年西ドイツから2014年ブラジルまでのワールドカップの紀行文を紹介。また、神戸市大倉山の神戸市立中央図書館2階には「神戸賀川サッカー文庫」を開設。サッカー関連の書籍や雑誌、資料のコレクションが並び、賀川さんが在席していればサッカー談義もできる。
賀川サッカーライブラリー 公式サイトhttp://library.footballjapan.jp/

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取材・文/森下裕美子 撮影/井原完祐

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