いしいてるみ・1983年東京都生まれ。2002年、東京大学文科三類に入学。入学後に理系に転向し、06年東京大学工学部卒業。同大学院修了。08年、経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー入社。お笑い芸人になることを志し、09年夏に退社。同年10月、芸能事務所ワタナベエンターテインメントのお笑い芸人養成所ワタナベコメディスクールに11期生として入学。現在、ワタナベエンターテインメント所属のお笑い芸人として活動中。TOEIC(R)990点、英検1級。
ブログ「てるてる日記」 http://d.hatena.ne.jp/gotoshin_terumi/
仕事が理由で死ぬくらいなら、やりたいことをやろうと思った
物事は頑張れば、報われる。学生時代までの私は何の疑いもなくそう思っていました。中高時代はみんなで何かを作り上げていくのが好きで、学園祭の実行委員長をやったり、生徒会をやったり。勉強も小学生時代は親に言われるまま受験をして特に意欲がなかったのですが、中学に入ってから目覚めて。一生懸命やり始めたら成績が上がり、勉強が楽しくなりました。東京大学では発展途上国のインフラ整備について学び、タイ、デンマーク、フィリピンでインターンシップを経験。大学院時代には『フィリピンにおける政治過程分析を用いた大気汚染対策導入の実現可能性の検討』という論文で学内賞を頂いたりと大学生活も充実していました。だから、マッキンゼーに入社する時も、世界トップクラスの企業で自分がやっていけるかどうかという不安がありつつも、「なんとかなるだろう」と思ってしまったんです。
実際に入社してみると、社員はそれまで会ったこともないような優秀な人ばかり。仕事の飲み込みも早ければ、成果を出すのも早い。しかも、会社にやらされているのではなく、仕事に情熱を注いでいる。「100メートル走のスピードでフルマラソンを走るような会社だ」と感じました。最初は必死で食らいついて、何とかついていっていましたが、入社半年目にリーマン・ショックが起きたころから雲行きが怪しくなりました。マッキンゼーでは仕事は与えられるものではなく、獲得するもの。成果を出し続けなければ、プロジェクトに入れなくなります。リーマン・ショックの余波で一時的に社内の仕事が減り、「成果を出さねば、生き残れない」と自分を追い詰めてしまったんですね。自分には解決し切れない問題が起きても「ここで逃げてはいけない」と助けを求めることができず、失敗を挽回しようと焦って空回りしてしまうという悪循環に陥ってしまいました。
ランチや夕飯の時間を削って仕事をしても成果が上がらず、精神的に弱っていたのでしょう。毎週日曜日の午後になると過呼吸を起こすようになりました。「何をやっているんだろう。頑張っても、頑張ってもわくわくするものに近づいていく気がしない。マッキンゼーのブランドに憧れて入社したけれど、本当にコンサルティングが私のやりたいことなんだろうか」と自問自答しました。それでも、辞めるなんて考えられなかった。世の中には頑張ってもできないことがあるということが認められなかったんですね。「自分からプロジェクトを抜けたら『逃げた』と思われて悪い評価がついてしまう。いっそ車にひかれて死んでしまえば、『逃げた』と言われないのに」と本気で思っていました。かなり危ない状態でしたが、そのくらい当時の私は見栄や体裁でがんじがらめになっていたんです。
そんな時に、大学の同期が体調を崩して会社を休み始めました。「体調を崩すくらい仕事がつらいなら、辞めればいいのに」と思う人もいるかもしれませんが、私には彼の気持ちが痛いくらいわかりました。「東大に入っていい会社に入ったのだから、1年で辞めては履歴書に傷がつく」と辞めたくても辞められないのです。彼の姿を通して自分を客観的に見つめられたことが、どん底の状態から抜け出すきっかけになりました。ふと「ちょっと待てよ。生きるために仕事をしているのに、仕事が理由で死にたいと思うなんてバカみたい。自分の人生なんだから、好きなように生きればいいじゃない」と思ったんです。
その時に真っ先に頭に浮かんだのが「お笑い芸人」でした。私は特に「お笑い」に詳しいわけではありませんでしたが、子どものころから人を楽しませるのが好きで、「生まれ変わったら、お笑い芸人になりたい」とずっと思っていました。だけど、「いい会社で、みんなからすごいと言われるようなキャリアを築くことが正しい人生」だと思い込んでいた私にとって「お笑い芸人」という職業は非現実的でした。「生まれ変わったら」という仮定なしでは考えられないただの夢だったんです。でも、学歴や会社名、収入、肩書といったそれまで自分を縛り付けていたものがどうでもよくなった時、お笑い芸人を目指さない理由はどこにもありませんでした。
お笑い芸人になると決めたら、あとは行動あるのみ。シンプルなはずですが、それまで乗っかってきたレールから降りるのは勇気のいること。寝る前に「よし、お笑い芸人になる。会社を辞めるぞ」と心を決めても、朝会社に行くと昨日と同じ日常があって、「何をバカなことを考えていたんだろう」と現実世界に引き戻されてしまう。心が揺れ動く日々が続きました。
最終的に決断できたのは、マッキンゼーでやれるだけのことはやったという思いがあったからです。私の頭脳や能力ではとても太刀打ちできない世界だったけれど、精いっぱいやって、とことん打ちのめされた。心底あきらめがついたというか、思い残すことがなかったというのは大きかったですね。もうひとつ、私の背中を押してくれたのは、マッキンゼーで仕事術としてたたき込まれた「まず仮説を立て、検証するためにすぐ行動する。仮説が違っていたら、すぐに仮説を立て直せばいい」という考えです。つまり、お笑い芸人を目指してみて、うまくいかなければ、また別の仮説を立てればいいだけのこと。そう考えたら、心が軽くなりました。
正解は自分の中にある。自分がどうしたいかがすべて
マッキンゼーを辞め、芸人の養成所を卒業し、お笑い芸人として活動を始めて5年。お笑いの世界は、想像以上に厳しかったです。まず痛感したのは、友人や同僚を楽しませることと、プロとしてお客さんを笑わせることはまったく違うということ。ひとりで舞台に立って人を笑わせることがこんなにも難しいんだと愕然(がくぜん)としました。ネタはできないし、お客さんにはクスリとも笑ってもらえない。肩書をすべてなくして裸になった時、ひとりの「石井てる美」という人間は何者でもない。環境や運に恵まれてたまたま手に入れた「東大の学生です」「マッキンゼーに勤めています」といった肩書にいかに自分が依存していたかを思い知らされました。
養成所主催の月に1度のライブでは、お客さま投票で下位の常連。見かねた周りの人たちが「珍しい経歴なんだから、それを生かしたネタをやったら?」とアドバイスをくれたのですが、うまく形にできなくて。自分の力量のなさを棚に上げて、「私がやりたい笑いとは違う気がする。もっとバカバカしくてくだらないことがやりたいのに」なんて思っていました。
風向きが変わってきたのは、ただ目の前のお客さんを楽しませようと考えるようになってからです。経歴をネタにするとか、しないとかそんなこととは関係なく、とにかく楽しませる。そのためには、舞台でスベっても恥ずかしいなんて言っていられません。心を裸にしないと何も伝わらないと身をもって学びました。そんな中で、少女時代のパロディー「短足時代」や海外ドラマの登場人物になり切る「SATC(アメリカのドラマ『SEX and the City』)のサマンサ」といったネタに少しずつお客さんが反応してくれるようになって、「もっと楽しませたい」という思いだけで芸人を続けてきました。自分の身を削って恥をさらして。自分をさらけ出すことだと思うんです。お笑いって。その覚悟がいかほどかを試されるのがプロの世界だと感じています。
最近でこそテレビにも少し出られるようになりましたが、まだまだこれから。仕事がほとんどない時期も長く、飲み会で初対面の人から「売れていない芸人なんて、意味がないじゃない」と言われたこともあります。収入もいまだに会社員時代の初任給に及ばず、副業として翻訳のアルバイトをしています。「芸人を辞めようかな」と悩んだことも数知れず。でも、会社を辞めて芸人の世界に飛び込んだことを「間違っていた」と思ったことはありません。私にとって芸人以上にわくわくさせてくれる仕事がほかに思い浮かばないからです。
大きな決断をしたときには、周りがいろいろなことを言います。でも、自分の人生に責任を取るのは自分。かつての私のように「やりたいことがあるけど、本当にやっていいんだろうか」とためらっている人がいたら、「一度きりの人生。他人の目は気にせず、思いっ切り生きて!」と声をかけたいです。実際は口で言うほど簡単なことではなくて私自身も迷ったり、つい人と比較して焦ったりもするんですけど、結局、正解は自分の中にある。自分がどうしたいかがすべてだと思っています。
INFORMATION
石井さんの著書『私がマッキンゼーを辞めた理由―自分の人生を切り拓く決断力―』(角川書店/税抜き1300円)。東京大学大学院修了後、世界有数のコンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社した石井さんがお笑い芸人を目指すまでの過程とその後が描かれている。
取材・文/泉彩子 撮影/刑部友康