ひやましんじろう・1969年京都府生まれ。平安高校(現・龍谷大学付属平安高校)卒業後、東洋大学へ進学。2年生で東都リーグ首位打者、4年生春にはキャプテンとしてリーグ優勝に貢献。91年にドラフト4位指名で阪神タイガースに入団。28試合連続安打は史上7位の記録。2002年4月23日に通算100号ホームラン達成。01年から03年までの3年間、選手会長に就任。06年から代打としてチームを支え、代打での打点が通算107、代打安打数156は球団最多でセ・リーグ歴代2位。13年に現役を引退し、14年から野球解説者、タレント活動、講演活動を行っている。桧山進次郎 OFFICIAL WEB SITE http://www.hinokibutai.com/
目標に向かい、その時々で自分のできることを続ける
2013年のシーズンで現役を引退し、現在は野球解説者、スポーツコメンテーターとして活動をしています。私の野球人生は決して順風満帆ではなく、どちらかと言えば苦しい日々の方が多かった。それでも、プロ野球選手として22年間も現役を続けてこられたのは、「野球こそわが人生」という思いを、強く持ち続けてきたからです。
父や兄が野球をやっていて、自然な流れで野球の世界に入りました。高校野球の強豪校に進学しましたが甲子園には出場できず、東洋大学へ。全国からより優れた球児たちが集まった中での競争。プロ野球を目指すどころか、その前に心が折れそうでした。でも、毎日バットを振り続け練習につぐ練習をし、首位打者を獲得。プロへの道が拓(ひら)けました。
タイガースに入団し初めてのキャンプでは、プロとアマの差を見せつけられました。私は練習についていくのが必死で、朝、起き上がるのもつらいほど。一方、先輩のプロ選手たちは普段と変わらない。1年目のシーズンは7試合だけの出場で、技術や経験以上にプロとしての体力や筋力アップの必要性を強く感じました。
その経験を次に生かすため、オフは身体をイチから鍛え直すことに重点を置きました。当時は筋肉が硬くなるからと筋力トレーニングはタブーで、私もウエイトトレーニングはほとんどといっていいほどしたことがなかったんです。そこで京都市内のフィットネスジムに通い、22年間専属コーチを務めることになる仲田健さんに出会いました。
自分の人生において、切り離すことのできない野球。だから「1日でも1年でも長く、プロ野球選手であり続けたい」という目標をかかげて、徹底した肉体改造を行い、わずか数年で自分でも驚くほど体力がつきました。その甲斐(かい)あって徐々に試合に出場する機会は増えましたが、まだ1軍と2軍を行ったり来たり。焦燥感や挫折感のような気持ちをいだきながらも、結果を出すためにトレーニングをする日々が続きました。
折れることなく気持ちを持ち続けられたのは、「誰にも負けたくない、俺ならできる」と自分に言い聞かせてきたからです。また、人と同じことをやっていてはレギュラーになれないので、ほかの選手よりも2時間以上早く球場入りしてバッティング練習をしたり、試合後も遅くまで練習。ウエイトトレーニングによる基礎に加え、野球の技術面でもレベルアップし、少しずつ、自分の描くプレイができるようになりました。
チャンスが巡ってきたのは、4年目のシーズン。監督に呼ばれ、オールスター明けから4番に抜擢されました。と同時に、伝統あるタイガースの4番が自分に務まるのかというプレッシャーも押し寄せてきました。そんな私にある方が「4番は特別でなく、4番目の選手だと思えばいい」とアドバイスしてくれたのです。その言葉で、少しばかり緊張感から解放され、バッターボックスに立てたのを覚えています。翌 95年には22本塁打をマーク。95年から98年まで、毎年100試合以上に出場するなど、充実したシーズンを送ることができました。
責任転嫁をせず、自分の信念を貫けば道は拓ける
順調と思えても、苦境は突然、やってくるものです。99年シーズンは春季キャンプでケガをして出遅れ、シーズン終盤は控えに回ることが多く、95試合の出場で37打点しかあげられませんでした。翌00年も87試合の出場だけで、完全にレギュラーの座を失いました。01年には再びレギュラーポジションに復帰し、球団新記録となる28試合連続安打を達成。初めて打率も3割になり、タイガース生え抜き選手として3年間、選手会長も務めました。それでも、若手の台頭やケガでの戦線離脱など、また壁はやってくるのです。
苦境にたたされるたびに大きな挫折を味わい、精神的にも苦しかったです。「このままいったら、プロ野球をやめることになるかもしれん」と考えたこともあります。それでも私がやったことは、野球に一心に向き合い、自分のレベルをあげ、実力で認めてもらうこと。苦境を打破するのは、自分の力しかないと信じていましたから。
ただ、努力しても簡単に苦境からぬけだすことはできません。それでも、自分の限界まで練習するしかないんです。もしも、野球を続けられなくなったとしても、限界までやったと自分を認めてあげれば後悔はしないし、次の道へと進むこともできます。私にとって苦境や壁は、野球人生というより人生そのものを見直すターニングポイント。その時の経験や人生観が、その後の野球人生を10年以上延ばすことにつながったのは間違いありません。
06年のオープン戦でのケガで戦線を離脱し、チームに戻ると代打という立場になっていました。代打はいつ試合に出るのかわからず、ワンチャンスをものにしなければならないという過酷な状況で、緊張感とプレッシャーは想像以上。半面、結果を残したときの達成感も大きいもの。ファンから「代打の神様」と呼んでいただけることは光栄でしたが、正直、戸惑いや葛藤はありました。でも、チームの勝利や将来を考えれば、若手の育成は必須。ベテランの私が代打という立場を受け入れることがチームにとってベストな選択。自分の思いだけを優先するのではなく、全体のバランスを考えての行動も、年齢を重ねれば必要なことなのです。
代打としての役割を果たし、長く選手を続けたいと思っていましたが、引き際は避けられません。私の場合、40歳過ぎから、特に走力の衰えを感じ始めました。そして13年の夏場に、疲労感が抜けずに体力が回復しない、いわゆる夏バテを経験し、そろそろかなと思い始めました。その年の9月のある日、球団から電話がかかり、いさぎよく43歳で引退を決意しました。
何度も何度も苦境にたたされながらも、43歳まで続けてこられたのは、信頼できる監督や選手、スタッフとの出会い、そして、自分を信じて限界まで挑戦する信念があったからです。私は、自分の野球人生に悔いはありません。これからは、今まで経験したことのない世界で新しいことに挑戦していきたい。何か習い事でもやってみたいですね(笑)。いいこと悪いことも含め、経験こそ自分の糧。チャレンジしてダメであれば、また別の方法で工夫してみる。挑戦することで得た経験が後に自分の宝物になっているという思いがあります。
INFORMATION
専属トレーナー・仲田健氏との共著『代打の哲学』(幻冬舎/税抜き1000円)では、組織に所属する一社会人としてチームの中での役割を見極め、個の力を発揮する桧山さんの考え方を紹介。社会や家庭でも実践できるヒントが満載。誰よりも近くで桧山さんの努力する姿を見てきた仲田トレーナーの証言も交え、わかりやすく読みやすい文章で表現されている。
取材・文/森下裕美子 撮影/島並ヒロミ