20代は、仕事が楽しくて楽しくて仕方がなかった
会社に入って最初に配属されたのが、財務部有価証券課でした。ここでの仕事は、本当にエキサイティングでしてね。アナリストのはしくれとして、企業のバランスシートを見たり、損益計算書を分析したりする。企業というのは、こんなふうに見ていくのか、こんなふうに評価していくのか、とこれがものすごく勉強になるわけです。投資先の候補となる企業に直接、話を聞きに行くこともありました。すると、私は新人なのに相手先からは部長クラスの偉い人が出てこられたりする。
そうなると、こちらもしっかり準備をしていかないといけないわけです。だからこれがまた勉強になって。しかも、それなりのポジションの方とお話をするわけですから、失礼なことがあってはいけないし、人間としてもきちんとしていなければいけない。一方で先輩方には優秀な方が多くて、もっともっと自分を成長させなければいけないと、自然に自分のモチベーションが高まっていくことになりました。実際、社会人としての成長は早かったと思います。ときどきほかの会社に行った大学の同級生と飲んだりすると、あらためて、自分は社会人として成長させてもらっているな、会社から鍛えてもらっているな、と感じたものでした。
ちょうど日本の高度成長期。しかも、不況から脱して成長していく過程でしたから、経済の大きなダイナミズムを感じることができた仕事でもありました。入社3年目には、日本経済研究センターに出向し、マクロ経済についても学びました。大きな経済の動きから、個別企業のミクロな動きまで、見方がわかってくるとこれは本当に面白いわけです。それこそ経済新聞や経済誌を読んでも、すべてが自分に関わりがあるかのように読める。行間が読めてくるというか、強い関心を持って読めるんです。20代は、本当に仕事が楽しくて楽しくて仕方がなかった。
最も印象深かったのは、後にコンビニエンスストアも展開していく大手スーパーの株式を、未上場時代に引き受けさせてもらったことでした。生命保険会社の営業職員は、保険の営業の一方、保険料の運用先としての有望企業を発掘したりもしてくれました。このとき、営業職員から上がってきた案件を、アナリストとして分析させてもらったのです。私は将来性を確信しました。結果的に、生命保険会社として初めて、その会社の株主になることができました。後に筆頭株主にもなります。多くの従業員をお持ちの会社さんでしたから、本業の保険でもお世話になることができて。財務面、営業面の両輪で、とてもいい関係を作ることができたんです。
ところが、仕事がますます充実し始めた入社7年目、私はほかの部署への異動を命じられることになります。これがショックでした。実のところ、アナリストの仕事が楽しくて、どの部門に移っても意に沿わない異動だったと思います。異動して半年経っても仕事に向かう意欲がわいてこない。体調も崩してしまったほどでした。そしてこのとき、大学のゼミの先生から卒業のときに頂いたはなむけの言葉を思い出しました。会社に入ると、ほとんどの時間を会社で過ごすことになる。しかも、寝ている時間以外は、会社や仕事のことが頭に浮かぶ。だから、会社や仕事が楽しくなくなると、人生そのものが充実させられなくなる。どうしたら充実した場になるか、よく考えてごらん、と。実は会社や仕事を面白くできるかどうかは、自分自身が決めることになるのだ、ということです。
やがて私は、後に自分に言い聞かせることになる結論をひとつ得ることになります。どんなことも、自分自身で準備万端にしておかなければいけない、ということです。何事につけても、実は自分自身が問われるんです。もし何かに問題があるときは、実は自分に非があることが多い。しかも、自分に非があることに、自分は気づいていたりもする。実はこれが大きなストレスをもたらすんです。上司から何かを咎められてドキっとするのは、自分の努力が足りないことを、実は自分自身で気づいているからです。自分がやれるだけのことをやっていたならば、そこで自分を責めることはなくなるんです。意に沿わない異動のおかげで、こういうことがわかるようになった。私は一気に気持ちを切り替えることになります。そしてこれが、後の転機を生んでいくんです。
直感やひらめきは、物事を考え抜いた人だけに贈られるプレゼント
入社10年目、私は兵庫県の姫路市に赴任していました。営業職員を束ねる支部長を支える事務統括の役割が、私の仕事でした。当時はこの営業部で5つの地域を担当していたんですが、そのほとんどで競合会社に負けている厳しい営業部でした。言ってみれば、万年2位が自分たちのポジションだった。でも、これでは面白くない。そこで、自分で何ができるか、いろんなことを考え始めるんですね。そして、支社から送られた資料を見ていて、あることに気がついたんです。負けていた地域のなかには、トップの会社に大きく水をあけられていた地域もありましたが、姫路市内だけはトップシェアを持っていた競合会社の8割まで肉薄できていた。私はこれだ、と思いました。
すぐに営業部長と相談をして、市内を制覇することを目標に据えました。はっきりとした目標があると、みんなが盛り上がるんですね。やってみようじゃないか、と。市内のシェアトップを獲得することに成功したのは、1年も経たないうちでした。こうなると、組織は一気に強くなります。以後、今に至るまで一度も市内のシェアトップを譲っていません。後任者たちのがんばりのおかげです。
思えばこのとき、市内だけは競合会社の8割まで来ていた、ということに気づいた時点で、もう結果が約束されていたんだと思います。では、なぜそれが見つけられたのか。ずっと考え続けていたからです。直感やひらめきというのは、物事を考え抜いた人だけに贈られる神様からのプレゼントである、という学者の話を聞いたことがありますが、まさにそうだったんだと思う。このときに知ったのは、ひとつひとつのことを考え抜くことの大切さでした。とにかく考える。人のやっていることを安易にまねようとするのではなく、自分で論理的に考えてみる。それを積み上げていくということこそ大事だということです。
この姫路での実績は、思いも寄らないキャリアを私にもたらすことになります。営業現場で頑張っているから何かやってくれるだろうと思われたんでしょう。いきなりロンドン赴任を命じられたんです。しかも、ゼロから駐在員事務所を作ることがミッション。イギリス駐在で、私は初代所長を務めました。第一生命という会社がすごいな、と思ったのは、当時の私はパスポートすら持っていなかったんです(笑)。ただ、これが面白いもので、そのときから遡ること6年、入社7年目の異動のときに、このままの自分でいてはダメだと危機感を持って、どういう経緯かはっきり思い出せませんが、英検1級にチャレンジしていたんですね。その頃は、会社に海外拠点はありませんでしたので、まさか自分が海外に赴任するなど思ってもみませんでした。ところが、予想もしなかったところで、このときの勉強が活きたんです。
企業というのは、時代の変化とともに変わっていかなければなりません。アメリカのダウ平均(ダウ・ジョーンズ社が公表する株価指数)を構成している30社で、算出が始まった19世紀の終わりから今なお残っているのは、実は1社しかありません。これは、長い期間にわたって企業を栄えさせるのは、どれほど難しいか、ということのひとつの証だと思います。企業に問われるのは、時代とともに、どんな変革をできるか、ということです。
学生のみなさんにぜひ知っておいていただきたいのは、企業は今の状態が未来永劫続くわけではないということです。発展をさせ続けるためには、企業は変革をしなければならない。その変革は、実はみなさんが担うんです。そして、そのプロセスは、みなさんを必ず大きく成長させてくれると私は思っています。
新人時代
プライベート
取材・文/上阪徹 撮影/刑部友康 デザイン/ラナデザインアソシエイツ
※2009年取材