浦田理恵さん(ゴールボール選手)の「仕事とは?」

うらたりえ・1977年熊本県生まれ。福岡教員養成所在学中の20歳の時に網膜色素変性症を発症。生活訓練学校を経て2003年より鍼灸(しんきゅう)訓練校・国立福岡視力障がいセンターで鍼灸・マッサージを勉強し、06年免許を取得。ヘルスキーパー(企業内理療師)として一般企業に勤務したのち、09年より障がい者スポーツ選手雇用センター「シーズアスリート」に所属。04年、アテネパラリンピックで銅メダルを獲得した小宮正江選手の姿に憧れ、ゴールボールを始める。08年の北京パラリンピックでは8カ国中7位に終わるも、12年ロンドンパラリンピックでは団体競技で夏季・冬季併せて史上初となる金メダルを獲得。現在は日本代表チームのキャプテンとして16年リオデジャネイロパラリンピック出場を目指している。
障害者スポーツ選手雇用センター シーズアスリート公式サイト
http://athlete.ahc-net.co.jp/aboutsite.html

できないことを数えるよりも、できることを増やす方が、人生は楽しい

視力が急に悪化したのは、教員になるための専門学校の卒業を3カ月後に控えたころでした。コンタクトが合わないのかなと眼科に行って検査を受けたところ、矯正をしても視力が上がらなくて。視野も狭まっていることがわかり、大きな病院で精密検査を受けるよう勧められたのですが、事実を知る勇気を出せず、学校が忙しいのを言い訳に先延ばしにしていました。

のちに私の目は「網膜色素変性症」という進行性の難病だと診断されるのですが、当時はまったく見えないわけではなかったので、黒板の字が見えないときは友人にノートを借り、授業にはかろうじてついていっていました。ところが、卒業を間近にしたある日、教育実習で小学生を引率してプラネタリウムに行ったところ、薄暗い館内でものがほとんど見えず、立ち往生してしまったんです。子どもたちを引率するどころか、自分の席にもたどり着けず、別の先生に連れて行ってもらうような有様で。「これでは学校の先生にはなれない。ずっと先生になることが夢だったのに…」と恥ずかしさと情けなさで胸がいっぱいでした。

学校はなんとか卒業したものの、仕事には就かず、外出するのも怖くなって。約1年半、ひとり暮らしをしていた福岡の部屋に引きこもりました。その間、病気のことは家族にも友人にも打ち明けられませんでした。私は長女のせいか、幼いころから「しっかりしなければ」という思いが根底にあり、弱い自分を見せられないタイプ。目が見えなくなって日常生活もままならないことをみんなが知ったら、失望させたり、重荷になるんじゃないかと考えると、相談ができなかったんです。ひとりの部屋で「自分なんて何の役にも立たないんじゃないか」「生きていても、みんなに迷惑をかけるだけじゃないか」とさえ考えました。

救ってくれたのは、熊本の両親から頻繁にかかってくる電話です。本音を言えないのがつらくて、冷たい態度を取ったこともありましたが、それでも変わらず自分のことを気にかけてくれる。そんな両親にこれ以上隠し事はできないと思い切って母に打ち明けたところ、最初は母も泣き崩れてしまいました。でも、落ち着きを取り戻すと、家族みんなで私にとって何が一番いいかを一緒に考えてくれて。両親としては私を実家に呼び戻した方が安心という気持ちもあったと思いますが、長い目で見れば、情報量も仕事も多い福岡の方が自立しやすいと考えたのでしょう。「仕送りはまだ続けられるから、福岡で頑張って自分のやりたいことを探しなさい」と言ってくれたんです。

福岡に戻り、友人たちにも病気を打ち明けたところ、温かく励ましてくれました。それだけではなく、視覚障がい者に役立つ情報をたくさん集めてきてくれました。その中で、視覚障がい者が身の回りのことをひとりでできるよう訓練する学校があると知り、通い始めました。ただ、その一歩を踏み出すにも時間がかかったんですよ。正直なところ、私の中に「目が見えないのは、かわいそうなこと」という偏見があったんでしょうね。自分の障がいを受け入れられず、白杖をついて歩く姿を見られるのも恥ずかしいと思っていたんです。

訓練校に通い始めると、同じ状況なのに明るく毎日を過ごしている同級生たちに出会い、私の偏見も消えました。それでも、訓練中は何をするにも時間がかかって「見えないから、あれもできない」「これも、できない」と泣き言ばかり言っていました。そんなときに、お世話になっていた先生が「できないことを数えるよりも、できることを増やす方が、人生は楽しくなるよ」と声をかけてくれて。言われてみれば、私は手も足も自由に動くし、話すこともできる。そう考えたら、訓練にも前向きに取り組めるようになり、料理やパソコン、メイクといった以前はあきらめていたことも工夫しながらできるように。そのうちに「仕事もしたい」と意欲がわいてきました。

「家族にも友人にもこれだけ支えてもらったんだから、何かで恩返しをしたい」という思いはずっとあって。自分が笑顔でいることが一番の恩返しで、そのために自立は絶対だと考えていました。そこで、目の見えない自分にもできる仕事って何だろうといろいろ考え、マッサージ師を目指すことに。福岡にある視力障がい者のための鍼灸・マッサージの訓練学校に通い、3年後に資格を手にすることができました。

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言い訳のできない状況で自分がどこまでできるかを試してみたかった

ゴールボールに出合ったのは、鍼灸・マッサージの訓練学校に通い始めて2年目。学校のテレビでアナウンサーの実況や視力が残っている友人の説明を頼りに、アテネパラリンピックのゴールボール女子の試合を観たのがきっかけです。ゴールボールは1チーム3名で対戦する球技で、コートは縦18メートル、横9メートル。視力の差が影響しないよう目隠しをして鈴の入ったボールを転がし、ゴールした得点を競います。目が見えないことが信じられないくらい思いっ切り戦っている選手たちの姿に憧れて、私もやってみたいと心を躍らせました。

幸運なことに、通っていた学校では放課後にゴールボール日本代表の選手たちが練習をしており、なんと体育の先生が日本代表のヘッドコーチだということもわかりました。そこで、勇んでゴールボール部への入部を申し出たのですが、私は運動が苦手で、中学・高校の体育の成績は5段階評価の2か3といったところ。もともと体力がないところにきて、目が見えず、伴走者なしに走ることもできません。最初はコートにも入らせてもらえず、ルームランナーでウォーキングをする毎日。ようやくボールに触らせてもらえても、大きくて重く、片手で投げることができませんでした。

何をやるにもできるようになるまでに時間がかかり、「私には無理かな」と思ったことも一度や二度ではありません。それでもやめなかったのは、一緒に目標を追いかけるコーチや先輩、仲間の存在があったから。ゴールボールはチーム競技なので、自分のミスがチームの足を引っ張ることになる半面、いいプレイをすればチームに貢献することができます。自分のやったことで仲間から「ありがとう」と言われるそのひと言が、たまらないんですよね。

そのほかに、もうひとつ理由があります。ゴールボールは全員が目隠しをして行う競技なので、見えないことが言い訳になりません。その状況で自分がどこまでできるのか、自分を試してみたかったんです。ある意味、体のいい言い訳が私にはあって、何事も見えないせいにすればたいてい許されてしまう。「仕方がないよね」と言ってもらえる。でも、そんな人生は嫌だと思ったんです。

初出場のパラリンピック(北京)で8カ国中7位という成績に終わった時は、涙が止まりませんでした。海外のチームの強さを見せつけられたのも事実なのですが、練習ではできていたことが本番では発揮できなかった部分もあって、それが悔しくてたまらなかったんです。今、自分に足りないものは何なのか。どうすれば4年後に金メダルを獲(と)れるのか。帰りの飛行機の中で、これからの自分がやるべきことを書き出さずにはいられませんでした。私は目が見えなくなって、何も手につかない状況から、ここまでくることができた。足りないものを一つひとつ積み上げていけば、またあの舞台に立てるし、絶対に立つ。そう心に決めて練習に励みましたから、ロンドンパラリンピックで金メダルを手にした時の達成感はものすごかったです。

現在は2016年のリオパラリンピックに向けて挑戦中ですが、ロンドンの金メダリストとしてどの国も日本代表チームをよく研究していて、手ごわいですね。リオで金メダルを獲るために足りないことはたくさんあって、全部に手を届かせたいんですけど、一つひとつできることを増やしていくしかありません。やはり、勝敗を左右するのはどれだけ自信を持って場に臨めるか。自信というのは、つくものではなく、つけておくもの。そして、その自信というのは、準備をしておくことで強固になっていくものだと思っています。

私がゴールボールを続けてこられたのは、仕事とスポーツを両立できる環境を得られたことも大きいです。障がい者スポーツは日ごろの練習にかかる費用や遠征費など自己負担が多く、ゴールボールだけでは食べていけません。それでも、ゴールボールで世界一を目指したいという夢は絶対にかなえたかったので、就職の面接では自分がその会社にどう貢献したいかをお話しするとともに、練習時間の確保もお願いしました。ありがたいことに最初の会社でも理解してもらえましたし、現在勤務する障がい者スポーツ選手雇用センター・シーズアスリートではさらに恵まれた環境にあります。午前中はマッサージや講演などの仕事をして、午後からはトレーニングをするという毎日。シーズアスリートの活動は一般会員の皆さんに支えられていて、選手のお給料や遠征費は会費の中から出していただいています。

たくさんの方たちに応援していただき、試合前にはプレッシャーも感じますが、「皆さんを絶対に喜ばせたい」という思いから奮発させられます。私がゴールボールで追いかけている夢が私ひとりのものではなく、成し遂げることで皆さんの喜びになり、自分もエネルギーをもらう。視力を失ってから人に助けられることばかりだった私にとって、誰かの役に立てるほどうれしいことはありません。結局、私にとって仕事というのは自分のためなんですよね。

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INFORMATION

『見えないチカラとキセキ』(学研教育出版/税抜き1300円)には、視力を失って教師になる夢をあきらめた浦田さんが、パラリンピックのチーム競技で日本初の世界一に輝くまでの軌跡が描かれている。身の回りのことをやるのもおぼつかない状況から自分の道を見つけ、自立していく浦田さんの姿から、「幸せは自分たち自身でつかむもの」という力強いメッセージが伝わる。これから社会に出る人たちにも大きな勇気を与えてくれる一冊。

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取材・文/泉彩子 撮影/刑部友康

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