とみたらぼ(とみたけいいち)・1962年、北海道生まれ。獨協大学在学中よりミュージシャンとしての活動を開始し、ユニット「KEDGE」によるアルバム『COMPLETE SAMPLES』をリリース。88年以降は作編曲を中心に活動し、キリンジ、MISIA、平井堅、中島美嘉、RIP SLYME、椎名林檎、木村カエラなど数多くのアーティストを手がける。2000年にプロデュースしたMISIA『Everything』は200万枚を超えるセールスを記録。03年からはセルフプロジェクト「冨田ラボ」としても活動し、16年11月30日には5枚目のアルバム『SUPERFINE』のリリースを予定している。また、わかりやすい音楽解説にも定評があり、14年には初の音楽書『ナイトフライ−録音芸術の作法と鑑賞法−』を上梓。16年度横浜国立大学の入試問題に著書の一部が引用され、採用された。ひとつの曲ができていく工程をオーディエンスの前で披露する「作編曲SHOW」の開催や、世界中の著名アーティストが講師として招かれる「Red Bull Music Academy」への参加など一般の人たちの音楽を聴く楽しみを広げる活動も行っている。
冨田ラボ・冨田恵一ウェブサイト http://www.tomitalab.com/
音楽プロデューサーを目指す以外の道を思いつかなかった
-高校時代にはすでに音楽プロデューサーを志されていたそうですね。
高校時代はジャズフュージョンのバンドを組み、ギターを弾いていたのですが、「ステージでスポットライトを浴びたい」という願望はありませんでした。それよりも、録音されたものを聴いて「すごいな。この曲のこの雰囲気を作り出しているものは何だろう」と曲の構造を分析したり、「ドラムのテンポはこのくらいで、ベースのフレーズ(音の自然なまとまり)をこう重ねて…」と考えることが好きでした。いろいろな作品を聴くうちに、楽曲の構造だとか雰囲気を最終的に決めているのはプロデューサーだということがわかってきて、高校3年生のころには「そういう仕事をしてみたいな」と思っていました。
とはいえ、地方の一高校生でしたから、親に「東京に行って音楽の修業をします」と宣言するような勇気もなく(笑)。とりあえず大学に入り、バンドをやったり、当時出てきたばかりの多重録音の機材を使って家でひとり曲を作り、デモテープをオーディションに送ったりといろいろなことをやりました。そのうちにCMの曲を作ったり、コンサートツアーのバックバンドでギターを弾いたりするようになり、「卒業後も音楽で食べていけそうだな」と判断したんです。当時は演奏の仕事がほとんどでしたが、「いずれはプロデューサーに」と明確に目標を定めていました。それ以外の道が思いつかないくらい「プロデュースをしたい」という気持ちが強くありましたね。
理想の音楽を具現化し、世の中に広く届けられる状況を自ら築いていった
-初めてプロデュースをされたアーティストはキリンジ。35歳の時ですよね。演奏のお仕事からプロデュースにどのようにシフトされたのでしょう?
コンサートツアーで何かしらいいところのある演奏をしていると、CDの制作をする時にスタジオでの演奏に呼ばれたりするんですね。その時に曲の構成についてアイデアを出すうちにアレンジャー(編曲家。メロディーに伴奏をつける作業を担当する)として仕事を依頼されるようになりました。アレンジャーというのは曲作りにおいて最終的な決定権を持たず、依頼されたことをやるというのが基本なのですが、僕の場合は自分から「こういうアプローチはどうですか」と提案をすることが多く、割とそれが採用されることが多かったんですね。ただ、提案の余地がないことももちろんあるわけです。そういう時に、仕事だからというより、「このアーティストなら、もっとこうした方が絶対にいい音楽になるし、訴求力も高くなるのに。なんでみんな気づかないんだ」と残念でならなくて(笑)。自分の理想の音楽を具現化して世の中に広く届けるには、やはりプロデューサーになって、作品作りにかかわるすべてに決定権と責任を持つ立場に立たなければと考えるようになりました。それで、ある時期から「アレンジだけを分業的にやる仕事はお受けできません」と思い切って言うようにしたんです。キリンジからプロデュースを依頼されたのはそんな時期でした。
仕事はひとりきりではできない。自分の考えを一生懸命伝えることが必要
-キリンジのプロデュースを依頼された経緯は?
3人組の音楽ユニットを組んでいた時期があって、キリンジの所属事務所の社長さんがやっている音楽レーベルからCDをリリースしたことがあったんです。その時に僕は作曲、編曲、ギター、キーボードとボーカル以外をすべて担当していましてね。今でも「冨田ラボ」名義のプロジェクトでアルバムを作るときはそうなのですが、自宅でほとんどの音を作り、できたものをスタジオでみんなに聴かせるスタイルだったんです。つまり、社長さんとしては制作工程の半分以上は僕が何をやっているのかわからない状態でした。ただ、マスタリングというCDの原盤を作るために音の調整を行う作業が制作の最終工程にあって、そこで僕がエンジニアに指示を出している様子を半日くらい見ていたんですね。その様子を見て「この人ならプロデュースをお願いしても大丈夫だろう」と判断したそうです。「もちろん音楽性も大事だけど、それは作品を聴けばわかる。決め手は的確な指示と、物腰の柔らかさだった」とのちに教えてくれました。
それを聞いて、プロとして音楽を作るには、なぜそのサウンドなのか相手が納得するよう伝えることが大事なんだとあらためて思いました。僕が作るのは特徴のあるサウンドが多いのですが、例えば「そのコード進行は難しいんじゃない?」と指摘をされたときに、自分では「絶対にこっちがいい」という確信があっても、若いころはきちんと説明できなかったんですね。でも、そのために自分がいいと思う音楽が作れないのはさみしいなと思って、ある時から「サビからメジャーなコードで展開していく前に、少し複雑なコードを入れた方がサビがより引き立つのでは?」と具体的に話すようにしたり、「こういう方法もあるから、やってみませんか?」と相手を否定せずに意見を言うようにしたら、納得してもらえることが多くなったんです。
仕事はひとりきりではできません。自分の意見を聞き入れてもらえないときというのは相手にも理由があって、「別のやり方がいいんじゃないか」とか「彼のやり方では心配だな」ということで反対するわけですから、聞き入れてもらうには「心配ないよ」ということを説明しなければいけない。特にキャリアの浅い時期は実績がなくて、一緒に仕事をする相手も不安ですから、自分の考えを一生懸命伝えるということが必要だと思います。
後編では音楽プロデューサーとして大切にしていることや、現在の音楽業界の状況についてうかがいます。
(後編 9月14日更新予定)
INFORMATION
セルフプロジェクト「冨田ラボ」として5作目のアルバム『SUPERFINE』(2016年11月30日発売予定)より、新曲『Radio体操ガール feat.YONCE』と『雪の街 feat.安倍勇磨』をリリース。16年9月23日(金)よりiTunes store 、レコチョクなどのサイトで配信されるほか、スピードスターレコーズより7インチレコードとして発売される。
16年10月15日(土)には、学びの祭典「SONIC ACADEMY FES 2016」に冨田ラボが今年も登壇。最新作『Radio 体操ガール feat. YONCE』を題材に、曲の作り方、個性を引き出す編曲の仕方など、冨田ラボの制作プロセスを公開する。
取材・文/泉 彩子 撮影/刑部友康