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掲載日:2011年09月20日

2011年4月、ソニーの社長・会長を務めた大賀典雄が亡くなった。享年81歳。
10年前に取締役を辞めたが、取締役在任36年で退職金が16億円にのぼった。
「高い?」と筆者に聞き返した大賀。「実際には税金で4億円取られたから手取りは12億何千万円でした」そうだが、彼はその金で軽井沢町にコンサートホールの『大賀ホール』を建てて全額寄附してしまった。
大賀ホールは現在、軽井沢駅北口から2、300メートルのところにある。場所柄もあってここで開かれるコンサートはいつも満員。「実は私の女房(みどり夫人、ピアニスト。大賀氏はバリトン歌手だった)は私と芸大同期でしてね。彼女は戦争末期に軽井沢に住むピアノの先生のところへ通ってたいそうで、彼女の提案で大賀ホールを町に寄附することになったんです」(大賀)。
大賀は01年11月、北京でオーケストラを指揮中、脳梗塞で倒れ、飛行機で日本に運ばれた。意識不明のまま3カ月。「行ったこともないのにエジプトのアレキサンドリアの夢を見ていたんですよ(笑)」と冥土をさまよっていた。奇跡的に回復、軽井沢でみどり夫人とゴルフをやるまで健康を取り戻していた。
彼は若いころ、プロのテノールの歌手として、NHKで200人の合唱団を後にして歌うほどの実力を持っていた。その大賀がまだ中小企業にすぎなかったソニーに入社したのは、ソニーの創業者である井深大と盛田昭夫にヨーロッパからアメリカに向かう客船の中で口説き続けられたのが始まりである。
生前の盛田氏が言った。
「彼が芸大の学生のころ、ソニーにきて、まだ商品化されていなかったテープレコーダーのモニターとして、いろいろ意見を言ってくれてね。絶対にこの男が必要だと井深さんと私が話し合って、ソニーにきてほしいと頼み込んだのです」と。
1959年9月、彼はソニー入りして1年後、製造部長に抜擢される。身長180センチ、体も大きいが目も鼻も口も大きく、声もバリトン歌手らしく大きかった。何しろ存在感があった。
最初の仕事はSONYという社名のロゴを自分で創ったことだ。彼は技術系ではないのにメカに詳しかった。学校出立ての技術屋など問題にしないほどの物知りだった。
現役のころ、彼は私に「SONYというロゴは、何度も私が作り直しているんですよ。気がつかなかったでしょう」とうれしそうに告白したことがある。万事、完ぺきで私は彼に「自信満々居士(こじ)」というあだ名を捧げたくらいである。
あれはいつだったか。まだ音楽はレコードの時代だった。CDという光を使うディスクが誕生したあとのことだ。彼は「CDの大きさを何センチにするか、実はフィリプスと激論になりましてね。結局私が言った通りになったんですが、このディスクの中にクラシックの曲40分を閉じ込めるというのは私の考えだったんです」。今のDVDをはじめ、大賀は使命感を持って録音機材としての規格を自分の考えでまとめた男でもある。ソニーという会社にもAV界を動かすリーダーシップがあった。これは歴史に残る彼の行跡(ぎょうせき)の一つでもあった。
彼の自信の強さには一つのエピソードがある。かつて三井銀行(現三井住友銀行)のドンと言われた元会長の小山五郎氏の言である。
「彼に三井銀行にきて講演をしてもらったことがあったんですよ。そこで彼は三井銀行のことをミソクソに言うわけですよ(笑)。なんという無神経な男だろうと腹が立ちましてね」と小山。そのせいもあって盛田が大賀を社長にしようとした時、主力行である三井銀行の小山に相談に行ったら「あの男を社長にしてはダメだ」と反対された。盛田は「怒る小山」をなだめながら大賀を社長にしたのである。
しかし大賀は社長になっても、井深、盛田の2人に満腔(まんこう:全身)の敬意を払っていた。「お2人は創業者ですからね。ボクはそのソニーをお預かりしたものと思っています」と日ごろから謙虚に語っていた。
ソニーはのちにアメリカのCBS(レコードとピクチャー)を買収したが、その交渉役は大賀に任された。
大賀はCBSと何度も論争した。「私はソニーレコードを瞬く間に日本一のレコードメーカーにしましたが、100億円の利益が出たころ、合弁相手のCBSは利益をすぐに配当に回せと言うんですよ。ダメだ。この資金はレコード工場を作るときにとっておくんだと私が主張してその通りになったんですよ」と大賀は外資とは経営の考え方が違うんだと憤りながら話したものだ。
飛行機の操縦が好きで、自社用機を会社で買って操縦を楽しんだ。一度、ヘリを操縦してプロペラが樹木に触れて事故を起こし自らも重傷を負ったが、その後CBSとの交渉で渡米することになり、彼はタンカにのってアメリカに旅立った。
体も心も不撓不屈(ふとうふくつ:困難にあっても決して心が崩れないこと)の男だった。
60歳の還暦を迎えたとき、彼は会長の盛田に懇願し「一回だけだよ」と念を押されてオーケストラの指揮に挑戦した。一度だけの約束は何度も破り最後には、ベルリンまで行ってベルリン・フィルハーモニーでタクトを振るまでになったが、何をやってもやりこなすという根性があった。
晩年、彼は筆者に「ボクはカラヤンの死を看取ったんだよ」と明かした。カラヤン(オーストリア出身の世界的な指揮者)とは音楽を通じての友人だったが、たまたまヨーロッパに行った時、カラヤンが生死の境をさまよっていた。彼が訪ねて病床で手を取った時、カラヤンは最後を迎えた。「偉大な指揮者でした」と大賀。それは死者を弔うというよりその場に出会ったという感動の方が勝っていた。
ちなみに、軽井沢の大賀ホールは名実ともに彼を象徴する存在だが、彼は「あのホールは正五角形なんだよ。いい音を聞くには平行壁面があってはいけないんですが、日本には2500のホールがあるけどほとんどがシューボックススタイル(タテ長のスタイル)の箱型をしています。大賀ホールに平行壁面はありません。軽井沢町の町長さんに言ったら、五角でも六角でも音楽ホールを造ってくださるならなんでもいいです(笑)と言われましたけどね」とのことだった。
今軽井沢に東京方面から列車で着くと右側に素敵な大賀ホールと豊かな池が見える。今や軽井沢を代表するパワースポットになっている。
イラスト/ほししんいち デザイン/ラナデザインアソシエイツ