ささもと・つねこ●1914年、東京都生まれ。1940年、財団法人写真協会に入職。著名人や文化人、海外使節団の動向などを取材。雑誌『婦人公論』で「日本最初の報道写真家」として紹介された。戦後はフリーの報道写真家として活躍し、三井三池争議、60年安保などを追った社会派の写真も多い。一時期写真から遠ざかるも、1985年、71歳の時に写真展を開催し、活動を再開。以後、明治生まれの女性たちを題材に撮り続け、宇野千代、壷井栄、杉村春子らを撮影した「明治生まれの女性たち」シリーズは代表作となった。2016年、アメリカのルーシー賞ライフタイム・アチーブメント部門賞を受賞。同年、公益社団法人日本写真家協会が「笹本恒子写真賞」を創設。100歳を超えた現在も現役のフォトジャーナリストとして活動している。
前編では働く女性の少なかった戦中に職業を持ち、報道写真家を志した経緯をお話しいただきました。
後編では約20年間のブランク後に復帰し、102歳の今も撮り続けるのはなぜかをうかがいます。
写真の仕事から遠ざかっていた時期も、撮ることはやめなかった
-戦後はフリーランスの報道写真家として活躍されていましたが、40代後半から約20年間、写真の仕事から遠ざかっていた時期がありましたね。
私に仕事を依頼してくれていた雑誌の廃刊ラッシュが続き、写真家も増えて、仕事が減ってしまったんです。ほかに何かで食べていかなければとオーダー服のサロンを開いたり、当時はやり始めたフラワーデザインを勉強して人に教えたりするうちに、写真からは遠ざかってしまいました。ただ、撮るのをやめたことはないんですよ。フラワーデザインの勉強をしていた時も、習ったことを忘れないようにと作品をすべて撮影し、材料やアレンジの仕方をノートに書き留めていました。それを1年ほど続けていたら、出版社の方から「フラワーデザインの本を出す人を探しています」と聞きましてね。じゃあ、自分がやってみようかしらと生まれて初めて本を出しました。
-写真の仕事に復帰したきっかけは?
ちょうど昭和60年(1985年)でした。「昭和が還暦を迎えるその年に、戦後撮り続けてきたものの中から、室生犀星さんや井伏鱒二さんといった昭和をつくってきた人物の写真を選んで個展をしたい」という気持ちは以前からありました。ただ、写真の世界から遠ざかって長かったので、現実になるとは思っていなかったんです。ところが、前の年にずっと看病してきた夫を見送り、元気をなくしていたわたくしにある方が写真展開催を勧めてくれ、熱心に動いてくださって次々といろいろな方のご協力を頂きましてね。「昭和史を彩った人たち」という写真展を開くことができました。この写真展以来、再びフォトジャーナリストとして活動するようになったんです。当時71歳でしたが、写真の仕事ができることがうれしくて、年齢のことは忘れていました(笑)。
気づいたら102歳。今自分にできることを、とにかく一歩一歩やってきた
-96歳で写真展「恒子の昭和/女性報道写真家第一号の足跡」(2010年)を開くまで、年齢は公表されていませんでしたね。
年齢を言い訳にしたくないという気持ちもありましたし、年齢のために「ちゃんと写せるの?」なんて言われるのもちょっと…ねえ?(笑)。だから、誰にも教えていなかったのですが、「恒子の昭和」を開催した時に新聞に年齢が出てしまって、皆さんに驚かれましてね。あちこちから取材をしていただいたり、執筆したりと写真の仕事以外も忙しくなり、講演を依頼されてパリやチュニジアにも行きました。ありがたいことですね。
ただ、わたくしはやはり取材をされるよりする方が落ち着きます。骨折で足を痛めて車椅子に乗っていて、自由に動き回ることはできないけれど、撮りたいものはまだまだあります。今はフォトエッセーを作っているところです。正式なタイトルは決まっていませんが、モチーフは「人」と「花」。偉い方を撮影しておいとまする時に、お庭のランの花がふと目に留まったというようなエピソードや、祖母にまつわる花の思い出など、有名、無名を問わず「人」と「花」について書いていて、花の写真を新たに撮っています。
気がついたら、102歳。長い人生、つらいことや悲しいこともありました。今はこうして写真を撮り続けたり、皆さんの前でお話をして少しなりとも喜んでいただけることがとてもうれしい。何度も階段から落ちては努力をして這い上がって。あきらめなくて良かったと心から思います。年齢に反旗を翻して、生きている限り、やりたいこと、自分にできることを続けていきたいです。
学生へのメッセージ
仕事って生きることと同じ。一番大事なのは、うそをつかないこと、ごまかさないことね。他人の目を気にして仕事を選んだり、性に合わない会社で働き続ける人もいるけれど、人生は自分のものです。無理をしたり、「嫌だ、嫌だ」と思いながら仕事をするのは、もったいない。できないことはできないと言うことも大事です。ただし、努力はすること。「できない」「失敗した」と立ち止まるのではなく、新しいことに挑戦して、自分に合った仕事や会社を見つけていただけたらと思います。
笹本さんにとって仕事とは?
−その1 自分の腕で生き、何か社会の役に立ちたい
−その2 プロとして恥ずかしくないものを撮りたいと一生懸命にやった
−その3 生きている限り、やりたいこと、自分のできることをやっていきたい
INFORMATION
笹本さんと、2016年に101歳で亡くなったジャーナリスト・むのたけじさんの生き方を見つめたドキュメンタリー映画『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』が2017年6月3日(土)より東京都写真美術館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国で公開される。監督はNHKのディレクターとしてドキュメンタリー番組『がん宣告』『シルクロード』『チベット死者の書』などで数々の賞を受賞、大ヒット作『天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”』で知られる河邑厚徳さん。本作では、むのさんのペンと笹本さんの写真を交錯させながら、二人の証言を通して激しく揺れ動いた時代の人間ドラマを描き出している。
編集後記
102歳という年齢がにわかには信じられないほど若々しい笹本さん。若さの秘訣(ひけつ)を問うと、「無精にならないこと。朝起きたら何をするか、自分でやることを作るようにしています。老いを止めるのは努力。そして、何よりも生活を楽しむことが大事ね」と話してくださいました。赤ワインとお肉、チョコレートが大好きで、赤ワインは医師のお墨付きで毎日80ミリリットルお飲みになるとか。取材後おいとましようとしたところ、「少しおしゃべりをしていきませんか?」と誘ってくださったお部屋にはワインセラー。チョコレートを振る舞ってくださり、編集部スタッフや笹本さんのサポートをされているめい御さんなど女性ばかり6人、おしゃべりに花が咲いてつい長居をしてしまいました。聡明(そうめい)な話しぶりと少しいたずらっぽい笑顔が印象的な、とてもすてきな女性でした。(編集担当I)
取材・文/泉彩子 撮影/鈴木慶子