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掲載日:2011年12月28日

Vol.63 お笑い芸人 いとうあさこ

いとうあさこ・1970年東京都生まれ。89年私立雙葉高等学校、94年舞台芸術学院卒業。97年、お笑いコンビ「ネギねこ調査隊」でデビュー。2001年NTV「進ぬ!電波少年」の企画“電波少年的15少女漂流記”に参加。2003年にコンビ解散後、ピン芸人として活動。NTV『エンタの神様』、フジテレビ『爆笑レッドカーペット』などのお笑い番組に出演し始め、漫画『タッチ』のヒロイン「浅倉南」のパロディーなど明るい自虐ネタで注目される。日本テレビ『メレンゲの気持ち』にレギュラー出演するなどトーク番組でも活躍。劇団「山田ジャパン」の女優として舞台にも立っている。著書に『あさこ40歳。〜私、生きてる!〜』(講談社)。

お笑い界の厳しさを知り、あきらめるどころか頂点を見たくなった

今でこそ「20代で付き合った男性3人に総額1200万円を貢いだ」という話をネタにさせていただいていますが、当時の私に「貢ぐ」という感覚はなかったんですよ。彼が働かなくても、「一緒にいて楽しければ、それでいい」って思ってた。40代の今はさすがに働かない人は好きになれませんけど、もともと男の人に養ってもらおうという「アイデア」がなかったんです。だって、19歳で家出して親不孝をしていますからね。まあ、遅い反抗期みたいなものでしたけど、若いなりにいっぱい悩んで「自分の意思で生きていきたい」と決めたこと。家族をものすごく傷つけてまで家を出たからには、自力で稼がなければという意識はどこかにずっとあります。

仕事選びも最初は「暮らしていけること」が第一条件でした。箱入り娘だったので、どれくらい働いて、どのくらい稼げば生活が成り立つのかも見当がつかなくて。アルバイト雑誌を買ってきて、高収入で自分にもできそうな仕事を探し、サービス業の派遣会社に登録しました。最初の派遣先はシティホテル。そこで知り合って付き合い始めた彼が仕事を辞めてしまい、しばらくは生活費を稼いだり、彼の借金を返すだけで手いっぱい。でも、バブル期の名残で多いときには60万円くらいお給料を頂いていたし、基本的に働くことが嫌いじゃなかったので楽しく暮らしてましたよ。家出して3年目くらいからはホテルからレストランに異動になって勤務時間が規則的になり、自分の時間も少しできるようになりました。

生活の目途が少しついて、心の余裕が生まれたんでしょうね。「そう言えば私、女優になりたかったな」と突然昔の淡い夢を思い出し、終業後に舞台芸術の専門学校に通い始めることに。気づいた時には、本気でコメディ女優になりたいと考えるようになっていました。舞台でお客さんに笑ってもらう喜びにやみつきになったんです。

20代後半からお笑いの世界を目指したのは、「お笑いで名前を売れば、コメディ女優への近道になるかもしれない」と考えたのがきっかけです。当時は『ボキャブラ天国』などお笑い界の登竜門となる番組が人気で、新しい芸人さんが次々とテレビに出てきた時代。先輩たちには失礼な話ですが、お笑いなら芸能界に入りやすいと勘違いしてしまったんです。

もちろん、それが間違いだということにはすぐ気づきました。専門学校時代の仲間とコンビを組み、お笑いのライブに出るためのオーディションに行くと、面白い先輩芸人さんたちがいっぱい。頭の回転の速さも、間も、リズムもすごくて、「無名の芸人さんでもこんなに面白いなら、私たちなんて世に出られるわけない」と打ちのめされました。ただ、そこであきらめるどころか、お笑いの世界の層の厚さを感じて、頂点を見たくなったんです。「一番上に立ちたい」というのとは違って、「お笑いとは何か」を追い求めてみたいという気持ちでした。

「何でもやってみる」と「与えられた仕事を受け身でやる」は違う

この世界で食べていけるかなと思ったのは、40歳直前。長い間芽が出なかったから、正直、不安でした。特にピン芸人になった30代前半は心細くて焦ってばかりでした。ただ、やめようと思ったことはないんです。オーディションで落ちてつらくても、どうすればもっと面白くなるかを考えるのは楽しくて、ネタもせっせと作っていました。

「浅倉南」も最初はいくつも作ったネタのひとつでした。ただ、初めに「浅倉南、37歳です」と自分の本当の年齢を入れて名乗ったら、ライブ会場が湧いて、「おお、コレか!」と。テレビのオーディションでは箸にも棒にもかからなかったけれど、自分では「絶対面白くなる」と思ってライブでやり続けていたんです。原型はジャージにリボンでしたが、森三中の黒沢さんにもらったレオタードを着るようにしたり、リズムを変えてみたり、いろいろ工夫しながら。

転機は2008年夏に行われたお笑い番組『爆笑レッドカーペット』のイベントでした。そのときも最初は別のネタを依頼されたのですが、「好きなネタがあるので、やらせてもらえませんか」とお願いし、思い切って「浅倉南、38歳です。イライラする!」とやってみたら、どしゃ降りの雨の中満場の拍手を頂いて。ウケた理由はタイミングとか、いろいろあると思うんですけど、カッコつけさせて頂くと、「自分を信じた結果なのかな」と。涙が出ましたね。

そのイベント以来、少しずつテレビのお仕事も頂けるようになりましたが、本当に一歩ずつ歩んできたという感じ。「一発屋」で終わってしまうんじゃないかなという不安も心の底にいつもありました。でも、40歳を迎えたころかな。ライブでお客さんの笑い声を聞いて、しみじみと「幸せだな」と思って。振り返ってみれば、子どものころから一番うれしいのは人に笑ってもらった時だったし、20代の派遣時代に働くのが楽しかったのも、接客で人を喜ばせる仕事だったからなんですよね。「形は何であれ、人に笑ってもらえれば私は幸せなんだ」と気づいて、自分の軸がはっきりしたんです。すると、逆に変化していくことが楽しくなりました。

今ではお笑い番組だけでなく、お芝居をやらせてもらったり、声優など以前は思いもよらなかったお仕事も頂いたりして、とてもありがたいです。40歳を越えて新しいことにチャレンジする機会を頂くなんて、とてもぜいたくなことですから。つくづく思うのですが、お笑いというのは「NG」のない世界。皆さんに笑ってもらえれば、何をやってもいいというところがあるので、いろんなところに挑戦しやすい環境かもしれませんね。「NG」がないということが、いかに体験値を上げてくれるか、身をもって実感しています。だから、まずは何でもやってみることが本当に大切だと思います。

ただ、「何でもやってみる」ということと、与えられた仕事を言われた通りにやるのは違う気がするんです。だから、売れなくて仕事のないころから、「こうした方がもっと面白い」という意見はスタッフに言っていました。そんな中で、私にとって一番大きかったのが、レオタードを着るか着ないかという線引き。一時期はネタをやらないときも「レオタード着てください」と言われることが多かったんですね。それで場が持つというときは喜んで着ていたんですけど、時には「かえって浮くんじゃないかな?」というケースもあって。そういう場合は、「生意気」と怒られるのを覚悟でハッキリと言っていました。

そのかわり、普通の服で出演することで、「じゃあ、ほかに何か面白いことやってくれるんだよね」というものすごいプレッシャーを背負うんですよ。だから、必死でしゃべりを勉強しました。結果、お笑い番組以外の仕事にも呼んでいただけるようになったんです。まあ、たまたまいい方に転んだだけなのですが、どんな仕事でも、のんべんだらりとはやりたくないというところはあるかもしれないです。

それにしても、20代は恋愛一直線だったのに、今は仕事が喜怒哀楽のすべて。プライベートに関心がなくなってしまいました。失恋しても「ネタになるかな」なんて考えたりして、もう病気ですね。でも、やっぱり一番テンションが上がるのは仕事というか、皆さんに笑ってもらった時なんですよ。だから、今は仕事ひと筋でいいかなって思っています。本当はプライベートについても真剣に考えないと将来後悔するかもしれないのに、こんな時期にうっかり仕事に夢中になるなんて、トホホです。

information
裕福に育った幼少時代から、芸の道に目覚め、お笑い芸人として注目されるまでをつづった自伝『あさこ40歳。〜私、生きてる!〜』(講談社/税込1575円)。「昔の自分はネガティブな性格だと思っていましたが、振り返ってみるとそうでもなかったのかも。思春期に傷ついたときも『悲劇のヒロイン』に浸ってポエムをしたためたりして。なんか芝居がかっているというか、ちょっと尋常じゃないんですよね(笑)。でも、いつも思い立ったら一直線でした。結果的には、それがチャンスを運んできてくれたなとは思いますね。あくまでも結果ですけど」(いとう氏)。
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取材・文/泉彩子 撮影/鈴木慶子 デザイン/ラナデザインアソシエイツ

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