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掲載日:2011年01月31日

Vol.15 株式会社テレビ東京 元社長・会長 中川順氏

若いころは日経新聞の記者として、トップ記事を多数手掛ける

夜遅く銀座の老舗クラブのRでよく一緒になった。酒が好きだった。日経新聞の経済部長、編集局長を経て、同じ日経新聞系の東京12チャンネル(現テレビ東京)に専務として出向、1975年社長に昇格した。

白髪、天頂は光り、テラテラつやつやしていた。見方によっては明治時代の大臣か高位の軍人のように見えた。存在感があったというか――。

実際には日本経済新聞の経済記者だった。若いころから物怖じせず記者らしい記者だった。「おれの自慢はねえ、日経の記者のころ、1年間でトップ記事を250本書いたことだよ。3日に1本、トップを書いたってわけよ」とRいうバーでふり返っていた。

若いころから大物記者だった。日経新聞というと経済専門紙だから、トップ記事といっても朝日や読売とは違う。例えばむごい殺人事件があって一般紙が一面にトップで大きく報じても日経新聞のトップは「日銀○%利下げ」などの記事が一面トップにくる。

日経で経済部長、編集局長、常務を経て東京12チャンネルに入るのだが、そのころのこの会社は毎年、大赤字を出し続けていた。NHKをはじめ、他の日本テレビ、東京放送、フジテレビは1955年前後創業という歴史があり、出遅れたテレビ東京は後発局で、東京のキー局の一つではあったが、東京4局とは呼ばれず、4.1局などと蔑称されていた。

もっとも東京3局は日本テレビ=読売新聞、東京放送=毎日新聞、テレビ朝日=朝日新聞と三大紙の系列企業で、日経だけはチャンネルを持っていなかった。

それまで東京12チャンネルの大株主は経団連、日経連などで、いわゆる財界団体がオーナーだった。毎年の大赤字で財界がもてあましていたというのが実情で、日経新聞としては、タナボタのような感じで手に入れたと言っていい。

つまり日経の編集局長にまでなった中川氏が派遣されたのは、テレビ東京という赤字会社の再建のためだった。

毎晩のように夜遅く銀座のバーで一緒になったのは、彼の夜の立ち上がりが遅いことが原因である。再建のために彼は毎日、夜遅くまで社長室から指示を出していた。おそらく社内では怖い社長ではなかったか。

現場に任せる経営で手腕を発揮し、赤字経営を黒字化

経済記者というのはもともと、日本経済や会社経営について報道し、さらにそれを批判するというのが仕事である。自分勝手でわがままな経済記者に経営なんかやれるものかと、みな中川氏の経営者としての手腕をルックダウンしていた。ところが、テレビ東京は中川氏が専務に就任した翌年から状況が良くなり、累積赤字も1、2年でなくなってしまった。そして在任中に、他の先輩4局からも認められて、テレビ東京は現在でも存在感を見せている。

一つの理由は彼が経済記者として培った大手企業の社長たちとの深い付き合いからではなかったか。それまでスポンサーから見てテレビ東京を通じての宣伝価値が低評価されていた。

中川氏が社長になってから、テレビ東京の深夜番組は女性タレントの肌の露出が多く、識者から批判を受けていた。彼と酒席を一緒にした時、それを言うと「そうか。でもオレは見てないから知らん(笑)」と笑い飛ばした。その時間の中川氏はバーでホステスの膝をさわりながら豪快にウイスキーの水割りを飲んでいた。

「オレは番組の中身については何も発言しないことにしてるんだよ」と言った。「もし余計なことを言ったら編成局の連中はおれの顔色をうかがいながら番組を作るだろうからオレは我慢して黙っているんだ」と言った。

テレビ局のように視聴者によって支えられている事業は、現場が社長の顔色をうかがうような気持ちで番組を作ったら、つまらない番組になってしまう、という気持ちが中川氏にあったのだろう。

「好きなようにやってみろ。泥はオレがかぶってやる」という一種の侠気(きょうき:弱いものを助ける気持ち)みたいなものが彼にあったのではないか。

親会社の日経新聞社から見ると、テレビ事業が翌年から黒字化したことは、結果的に中川氏の手柄ということになり、彼は会長や相談役になったあとも、テレビ東京の首脳人事についても本社の顔色を見ることもなく、人事権をしっかり握っていた。中川氏の後の経営が安定していたのも、中川氏の人事権がしっかりしていたからではないか。

印象的に言うと豪快で武骨な人だった。酒以外、浮いた話もないし、ゴルフもやらなかった。つまりスキャンダルがまったくなかった。酒席の印象が強かったから、遊んでるようにも見えたが、唯一の趣味が酒で、それでまた溺れる風情はなかったから、いい酒だったのだろう。

NHKの紅白に対抗するように中川氏時代、毎年12月31日大晦日深夜まで「懐かしのメロディ」という舞台をテレビ東京は歌舞伎座で公演していた。そのころ、大晦日の深夜、筆者は毎年のようにその銀座の老舗クラブで彼らのくるのを待っていた。友人3、4人でガラガラと入ってくる中川氏一行を迎えて「お疲れさま」と大声でもてなすのが我々の役割だった。

もちろん視聴率では紅白にかなうわけではないが、中川氏の意地のようなものが感じられて、毎年深夜、Rで正月を迎えるのが楽しみだった。

そのクラブもすでに閉まり、中川氏もいない今、筆者にとっての大晦日、元旦は別のものになった。

テレビ東京再建の立役者はテレビ東京の歴史に深く刻みこまれているだろう。

中川順氏 略歴
1919年
広島県に生まれる
1943年
三菱電機入社
1946年
日本経済新聞社に転職。政治記者として活躍
1970年
常務
1971年
東京12チャンネル(現テレビ東京)専務
1975年
社長
1980年
藍綬褒章
1984年
日本民間放送連盟会長
1989年
会長、勲一等瑞宝章
1993年
相談役
2010年
死去(90歳)
著者プロフィール
針木 康雄 はりきやすお
1931年生まれ。月刊『BOSS』代表、経済評論家。早稲田大学文学部中退。57年、雑誌『財界』に入社。編集長、主幹を経て83年同社を退社、評論活動に入る。88年月刊『経営塾』を創刊、03年6月から月刊『BOSS』に改題した。シリーズ『経営の神髄』7巻(講談社)ほか著書多数。財界のご意見番ともいわれる。
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イラスト/ほししんいち デザイン/ラナデザインアソシエイツ

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