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掲載日:2011年02月21日

Vol.16 アサヒビール株式会社 元社長・会長 村井勉氏

人生を笑い飛ばす明るさで、企業再建の道を辿る

気さくな人だった。

十数年前、筆者の事務所が赤坂見附に引っ越したとき、突然「針木さん、おめでとう」と言いながら、事務所に入ってきた。

そのあと若い人が両手にビール(中ビン)で一杯になったケースを重そうにかかえて立っていた。

「お祝いに新しいアサヒ黒生を持ってきたよ」とニコニコ顔。

なるほど。新製品の宣伝も兼ねてるんだなと思い「わかりました。村井さん、あちこちに書いて宣伝しますよ」と言ったら「そうか、こっちの魂胆、見抜かれたか。アハハハ…」と笑いとばした。

当時、村井さんは、住友銀行副頭取からアサヒビールの再建社長として出され、社長として沈滞しきっていたアサヒビールに明るさを持ちこみ、業績を回復させていた。村井さんのあと、再び住友銀行から派遣された樋口廣太郎さんがスーパードライで、ビール業界の下位だったアサヒビールを逆転、キリンを抜いてトップ企業にのし上がるのだが、村井さんの役割はその逆転の前の地ならしの仕事だった。

つまり当時は会長。村井―樋口の住友コンビがスーパードライという爆発的なヒット商品を生み、トップの座を勝ち取った。

「アサヒビールに社長として行ったとき、会社のエレベーターで一緒になった社員たちの暗い表情。それを見て幹部を集めての社長訓示ではみんな朗らかな表情をしてくれた。人間、笑ってなんぼの世界だ。必ず私がアサヒビールを建てなおすから、笑って私の後をついてきてください」と言って最前列に立った人に「ハハハ…そうだろ」と話しかけた。

まさに「アハハ、アハハ」の人生だった。「モットーはネアカのびのびへこたれず」だった。人生を笑いとばそうという考えである。

彼にとって、アサヒビール社長は3度目の転社だった。住友銀行で常務になったあと、時の頭取のIの命令で彼は広島に本社のある「マツダ」の副社長として出された。当時マツダはフォードと提携し、再建の道を辿っていた。広島にやってきた村井さんは副社長室に入るや「おい、組合はどこだ」と秘書に聞き単身、労働組合の事務所に向かった。

「書記長は誰?キミ?委員長は?」と聞くと、「ハイ私です」委員長が手を挙げる。「あ、キミか。ボク、住友銀行からきた村井です」と言って手を握り「どや、一緒になって会社をよくしよう。そしてお互い、高い給料を取ろうじゃないか」と言って「アハハ…」と笑い飛ばした。どんな偉そうな人が住友からくるのかと身構えていた組合幹部は、その笑いにつられて何度も手を握り返した。

マツダ副社長として僅か2年間、それまで松田姓の同族会社だったマツダは、村井の明るさで労使関係が和やかになり、前向きな会社に生まれかわった。

会長の肩書そのままで、JR西日本の初代会長に就任

2年後、村井さんは、住友銀行に専務として凱旋した。翌年、彼は副頭取に昇格する。次は頭取かと言われたが、再び頭取のIに呼び出され「アサヒビールに社長として行ってくれ」と思いもよらぬ2度目の派遣である。

「オレは運がいいんだ」と彼。

アサヒビール行きを命じられたのは1982年の年末だった。祝電が次々と届くなか、こともあろうに正月2日、母が亡くなるという不幸にぶつかる。祝電と弔電が殺到するなか、弔問に訪れたI頭取が母親の霊前にぬかずいたあと村井夫人に向かい「ご主人には数々のご苦労をおかけしてきましたのに、このたびはまた大変な仕事を引き受けていただきました」と言うと、夫人は上司のその姿に感動して思わず涙を浮かべた。

アサヒビールの社長として4年、後任の樋口氏にバトンタッチして会長となった翌年、村井さんに再び召集令状が届く。

当時、国鉄といわれた官営企業が、全国的に民営化され、JR西日本の会長になってほしいと国から要請があった。彼は樋口社長と相談、アサヒビール会長の肩書をそのままにして新しいJR西日本の会長として大阪に赴任する。

もともと彼は関西人。関西財界の代表としてJR西日本のシャッポ役になった。だから彼は立場をわきまえ経営は国鉄生え抜きの社長にすべて任せ、細かいことにはまったく口をはさまず「自分がいることで民間企業としての空気になじめばいいと思って――」と言い、国鉄出身の新社長に「何をしたらいい?」と率直に聞いた。

「あちこちの職場にいらして、激励してください」と言われ「そんなことでいいのか。笑ってるだけで給料もらうのは申し訳ないな。ハハハ…」と笑い飛ばした。

実際、会長として現場に行って「やっとるか。ハハハ…」と笑うと、旧国鉄の職員が、この会長の気さくさに感激した。「ま、ボクの役割は潤滑油のようなものか。ハハハ…」と笑いとばした。

92年、彼はアサヒビールとJR西日本両社の名誉会長となる。

久しぶりに大阪で会ったとき、彼は私に自分の名刺を渡し、「2つの大企業の名誉会長なんて珍しいんだよ」と2つの肩書が書かれた名刺を見せてうれしそうだった。

「JRというのは面白いんだよ。名誉会長という辞令が出てね。みると“名誉会長の称号を贈呈します”と書いてある。鉄道会社というのは重々しいんだよね。アハハ…」と大笑いした。

彼はその足で東京のアサヒビール本社に帰り、後任の樋口社長に向かい「おい、この会社は名誉会長の辞令はないのかハハハ…」と言って、「おい、贈ってくれよ」と半分冗談で笑ってみせた。

アサヒビールはこのころから村井社長時代から狙っていたスーパードライが爆発的に売れて、会社中、誇りと幸せで一杯だった。

村井という陽気なパーソナリティは、住友銀行、マツダ、アサヒビール、JR西日本と4つの企業の社風を創っていったと言っていい。

村井勉氏 略歴
1918年
福岡県に生まれる
1942年
住友銀行(現・三井住友銀行)入行
1970年
取締役
1978年
東洋工業(現・マツダ)代表取締役副社長
1982年
朝日麦酒(現・アサヒビール)顧問、住友銀行代表取締役副頭取退任、朝日麦酒代表取締役社長
1986年
代表取締役会長
1987年
西日本旅客鉄道代表取締役初代会長
1988年
勲二等旭日重光章
1995年
取締役相談役名誉会長
2001年
アサヒビール名誉顧問
2008年
死去(90歳)
著者プロフィール
針木 康雄 はりきやすお
1931年生まれ。月刊『BOSS』代表、経済評論家。早稲田大学文学部中退。57年、雑誌『財界』に入社。編集長、主幹を経て83年同社を退社、評論活動に入る。88年月刊『経営塾』を創刊、03年6月から月刊『BOSS』に改題した。シリーズ『経営の神髄』7巻(講談社)ほか著書多数。財界のご意見番ともいわれる。
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イラスト/ほししんいち デザイン/ラナデザインアソシエイツ

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